「勝利の行進」コリントの信徒への手紙二2:12-17

 

 神はキリストの勝利の行進に連ならせてくださる(14節)と言います。そういうと特別な人のことかと思うかもしれません。そうではないのです。キリストが凱旋将軍になって勝利の大行進をされます。この表現の背景にはローマの凱旋の様子があります。その時に勝利したローマが、負けた国の人たちを鎖につないで行進しました。その様子と重ねて、キリストの勝利の行進の行列の一番最後に鎖でつながれて引かれていく捕虜の中にあらゆるキリスト者がいるのです。私たちのために十字架にかかり、復活してくださった方が鎖につないでまで神の国へと引っ張ってくださいます。

 私たちはこの勝利の行進において、キリストの勝利を指し示す者なのです。ローマの勝利の行進には、良い香を振りまくという習慣があったようです。「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」(14節) 私たちは多くの欠けや弱さや破れを持つものです。けれども、そういう者がキリストの香りを放つものとしていただけるのです。

 「香り」にも様々あります。香りと似た使い方をするものに「臭い」があります。香りは、最近は香害のように悪いものにまで使われるようになりましたが、基本的に良いにおいのときに使います。「臭い」は、くさいとも読むことのある字。悪いにおいです。「臭う」という字は漢字で、自分の字の下に大きいという字を書きます。自分を大きくという字を書きます。自分を前に押し出すのは自分の臭いしかしません。自分の臭いというのは、本人は意外と気がつかないことが少なくありません。知らないうちに悪臭を放っていることがあります。キリストを信じて洗礼を受けて、キリストの者とされた私たちも知らないでいると悪臭を放っていることがあります。

  悪臭を放たないように礼拝で清めていただくことが大切です。礼拝の場においてはただ神だけが大きくなります。悪臭が礼拝の場においてはなくなって、上品なキリストの香りがただよう者とされるのです。

   キリストの香りを放つ。ということは何か特別な大きなことをするということではありません。私たちが本当にあの十字架の主イエスと結ばれているなら上品な香りがただようのです。その香りは、特に気をつけなくてもいつの間にか広まっていきます。

 鼻の悪い人に、この香りは届きにくいかも知れませんが、主イエスに結ばれている人から確実にキリストの香りが放たれているのです。その香りをかいで、この勝利の行進へと加えられる者が起こされようとしているのです。

 

(8月12日礼拝説教要旨)

「確かな福音」マルコによる福音書16:14-20

 

 「11人」(14節)これは弟子たちのことです。12人の弟子のうちユダは裏切ってしまいました。その11人は、ユダと違って主イエスに最後まで従い通せませんでした。弟子たちは、主イエスが捕らえられる時にみんな逃げ出してしまいました。そういう弟子たちの前に復活の主イエスが現れてくださり、彼らを遣わします。

 特別な訓練をしてからというのではなく、欠けのあるまま主イエスが用いてくださるのです。復活された主イエスが弟子たちより先にガリラヤへ行って、そこで待っておられました。そこに主イエスの弟子たちに対する大いなる赦しの恵みが示されています。主イエスを裏切って、もう弟子と呼ばれる資格のないような人たちを、主イエスは十字架で赦してくださり、もう一度ご自分のもとに迎えてくださいます。

欠けをもった私たちを主イエスが礼拝の場に招いてくださり、私たちを赦してくださり、私たち一人ひとりを新しくしてくださいます。礼拝の場において繰り返し聖書の御言葉を聞き、聖霊において復活の主イエスと出会い、しなやかな心をもつ者としていただけるのです。主イエスを信じられなかった者が信じられるように造り変えていただいているのです。それは私たちが救われるためです。そしてまだ主イエスと出会っていない人が救われるために私たちを弟子として用いてくださいます。

 主イエスの弟子になるということは、特別な人のことではありません。キリスト者のすべてが主イエスの弟子なのです。厳しい学びを済ませた優等生だけが、主イエスの弟子になれるのではありません。そのような集団を目指しているのが、教会ではないのです。主イエスの目から見たら、みな弟子失格です。そういう人間が十字架の恵みによってキリスト者としていただけるのです。どんな人でも、主イエスの十字架の恵みによって、キリスト者としていただけます。そのために主イエスが洗礼を定めてくださったのです。

 不信仰とかたくなな心をもった私たちが礼拝の場において繰り返し聖書の御言葉を聞き、信じる者としていただけます。そして、私の次の人が救われるように主イエスを指し示し祈る者としてくださいます。

不信仰とかたくなな心をもった私たちを主イエスが自ら十字架にかかられて赦してくださいます。ここに確かな福音があります。世の中がどんなに変わろうと変わることのない救いがここにあります。

 御言葉を通して復活の主イエスと出会い救っていただき、次の人が救われるため確かな福音を伝えるの器として用いていただけるのです。

(7月1日礼拝説教要旨)

 

「失敗する者のために」 マルコによる福音書14:43-52

 

  12弟子のだれ一人として主イエスのご受難の道を共に歩むことが出来ませんでした。 けれども、そういう弟子たちをマルコによる福音書は非難していません。神の目から見て合格点の信仰を持った人はいません。そういう私たちを十字架で赦してくださる主イエスを聖書全体が伝えようとしているのです。  

  主イエスはゲッセマネの園で御心を受け入れるため祈って戦われました。それは49「聖書の言葉が実現する」という御心を受け入れるための戦いでした。 弟子たちは御心を受け入れる準備が整っていませんでした。ペトロも他の弟子たちも、一緒で主イエスを見捨てて逃げ出してしまいました。御言葉に背を向けて逃げ出してしまいました。 ユダにしてもペトロにしても目に見える神の国を考えていました。人間が考える神の国。それは分かりやすいかも知れませんが、聖書の語る神の国ではありません。力で支配して、無理やりキリスト者を増やしたとしても神の国はできません。 私たちは弟子の中でユダを特別悪者扱いしたくなる傾向があります。けれども、ユダも12弟子の一人と強調されています(43節)。ユダとペトロ、どちらも主イエスを裏切ってしまいました。他の弟子たちも皆、逃げ出してしまったのです。自分の都合で、ついて行く時は行きますが、逃げる時は逃げてしまいます。御心ではなく、自分の思いが優先されます。ユダと他の弟子たちの大きな違いがあります。ユダは裏切って後悔してそれで終わりでした。他の弟子たちは悔い改めてそこから先がありました。この違いが大きいのです。 主イエスはユダに対しても御手を差し伸べていてくださいました。裏切ることを十分にご存じなのに「友よ」とマタイによる福音書では呼んでくださっています。

  主イエスが打ち立てようとされている神の国は剣によるのでなく、力による支配でもありません。主イエスご自身が十字架にかかって赦してくださり包み込んで守って、仕えてくださる神の国です。 やがて弟子たちは、変えられていきました。主イエスを見捨てて逃げてしまうような失敗をしてしまう自分たちを赦すため十字架にかかってくださった主イエスを知って変えられていきました。失敗してしまうキリスト者失格の私たちのために、主イエスが十字架にかかってくださったのです。主イエスが救ってくださり、神の国の民としてくださっているのです。自分の計画にイエスを当てはめようとしてしまうような私たちが主イエスキリストの思いをなしていくように変えられます。私たちのために十字架にかかってくださった主イエス・キリストが私たちを変えてくださるのです。

 

(5月27日礼拝説教要旨)