「身体の復活」マルコによる福音書16:1-8

 

 聖書が語る主イエスの復活は、弟子たちの心に主イエスの思い出が残り続けたとか、魂だけが戻ってきたというようなものとは違います。 身体をもった復活があるのです。そのことを信仰の先人たちも信じました。       安息日が終わって、そして夜が明けるのを待ちかねたように、女性たちは主イエスのお墓に行きました。お墓の中に入って行くと天の使いが言います。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(6節)お墓の中に主イエスを見つけようとします。それは主イエスを、もう死んで過ぎ去った過去の思い出の中の存在としてしまうことです。主イエスをそういう人として見つめていることになります。私たちが主イエスを見つける場所はお墓ではありません。そこには主イエスはおられないのです。

 主イエスは復活して、生きておられます。お墓に入って、死んでしまった主イエスを相手にしている限り、生きた交わりはありません。生きた交わりがないということは、自分が変わる必要がないということです。けれども復活された主イエスとの生きた交わりは違います。そこで私たちは、生きている方と出会い、その出会いによって変えられるのです。そういう出会いがこの礼拝にもあるのです。

 天の使いは、弟子たちに伝えるべき言葉を託します。弟子たちは主イエスの十字架の時にみな逃げ去ってしまった弟子たちです。けれども、ここで天の使いはその「弟子たちに」と言います。その背後には、罪の赦しの宣言があります。

  復活された主イエスは、弟子たちより先にガリラヤへ行かれます。ガリラヤは、弟子たちの故郷です。弟子たちの信仰の原点です。そこで、彼らを主イエスの弟子として、信仰者としてもう一度最初から立て直して下さるのです。そのガリラヤへ、復活の主イエスが彼らより先に行っておられます。そこで弟子たちを裁かれるのではなく、迎えて下さいます。

復活の主イエスによって彼らは再び、弟子として、信仰者として立てられるのです。それはもはや自分の力や信仰心によってではありません。私たちの弱さや罪の全てを背負って十字架にかかって死んで下さった主イエスによって、そして主イエスを復活させて下さった父なる神の恵みによって立つことができるのです。私たちにとってのガリラヤは、教会の礼拝の場です。キリスト者失格のような私たちを復活の主イエスが礼拝の場において先にいて待っていてくださるのです。

 

   (イースター礼拝説教要旨)

 

「主の祝福を」マルコによる福音書2:23-28

 

 「安息日」に弟子たちが麦の穂を摘んだことが、ファリサイ派の人から問題にされます。ファリサイ派の人たちは行いによって救いを得ようとまじめに律法を守ろうとしました。実際に神の目から見て守りきれているかという問題はありますが、まじめに律法を守って救いを得ようとしていました。

  安息日のことが十戒の第4戒(出エジプト記20章8節以下)にあります。これだけ読むと仕事を休むということに関心がいってしまうかも知れません。けれども、人間が業をやめると言うことが中心にあるのです。神様がすべてを創られたことを覚えるため、人間が日々の業を中断するという意味があるのです。神を礼拝する安息日、神から祝福をいただく安息日のはずだったのが、いつのまにか律法を守る日、人を裁き、自分も裁かれる日になってしまいます。そこには真の安息はありません。

 十戒は申命記5章でも伝えられています。微妙に違っています。そこでは安息日の根拠は天地創造だけではなく、エジプトでの奴隷からの解放が言われています。旧約の民は、エジプトで奴隷だった時は、安息日を守れない状況でしたが、主がそこから救い出され安息を与えてくださいました。そのことを覚え、主によって与えられた救いと安息に与るために安息日が定められています。

  私たちは自分からなかなか休むことが出来ません。それは休みがとれるかとれないかという問題でなく、本当の意味での魂の安息は難しいのです。私たちは、仕事のこと家のこと…様々なこと、罪の問題を抱えています。そういう世界にどっぷりと浸かっています。神がそういうところから救い出してくださることがなければ、真の安息はありません。様々な業を中断して休んで、神による解放、救いの恵みを覚える時を持つことによって、人間の力では得ることのできない真の魂の安息を得ることが出来るのです。

 神を礼拝するのは、私たちが役に立つ者となるためではありません。神が安息日の主によって与えてくださる救いに与り、真の安息に与るためなのです。私たちの自己満足や誇りを満たす業による安息とは違います。そういう世界から解放してくださいます。神の目から見たら役に立つどころか、足を引っ張る存在の私たち罪人のため安息日の主イエスが十字架にかかって救いを与えてくださいます。そこに真の安息の世界があるのです。どんな人も能力で評価されなくても良い。人間の業を中断し、ただただ神の十字架の救いの御業を受入れ、祝福をいただく、そのような安息が、礼拝の場において与えられているのです。

  

(3月19日礼拝説教要)

「新しい教え」マルコによる福音書1:21-28

 

 会堂で、主イエスは教えはじめられました。 それを聞いた「人々はその教えに非常に驚いた」(22節)とあります。律法学者の語る「これをしてはいけません」「あれをしなければいけません」そういう律法を守れた人だけ救われるという言葉とは違っていたからです。どんな人も救っていただける本当の救いが語られていたからです。この驚きは、ただの倫理的、道徳的な教えを聞いても起こりません。倫理的、道徳的な話はすでにいやというほど聞いています。それまで知らなかった世界に触れたからこそ人々は驚いたのです。

 「時は満ち、神の国は近づいた」それはこの世の常識や理屈を越えている世界です。 神と向き合い、福音を信じて神の救いの恵みに与ることが言われます。

 主イエスが権威あるものとして語られた所で一人の男が叫び出します。汚れた霊は誰よりも神のことを知っています。けれども神と交わることはできません。

 汚れた霊につかれていた人は、主イエスと出会うまで礼拝していても他の人たちと一緒に礼拝できました。けれども主イエスがこられ、いきなり暴れ出しました。「悔い改めて福音を信じよ」そう言われて、かまわないでくれと言います。それは他人事ではありません。主イエスにかまわないでほしい。当時、病気は悪霊によるものと考えられていたが、そういうのと関係なしに私たちも信仰的には健康でありません。 あらゆる人が罪の問題を持っています。神の目から見て罪の問題をもった私たちが、方向転換し、神と向き合って救いの恵みをいただけば良いのです。けれども方向転換しなくても、今のまま自分の力でなんとかやっていける。だからかまわないで欲しいと思います。主イエスは「黙れ、この人から出て行け」と言われます。汚れた霊につかれていた人を滅ぼすのでなく、汚れた霊を追い出されるのです。

 「時は満ち、神の国は近づいた」という宣言は、神が悪霊の力を打ち破ってくださり、神のご支配がはじまっていると言う意味です。汚れた霊の支配は終わる。だから「悔い改めて福音を信じなさい」と言われています。主イエスの権威は十字架の死において、そして復活において表されています。その主イエスが力ある言葉を今も礼拝において一人ひとりに語りかけてくださるのです神のご支配による救いが実現しようとしているから方向を変えて、神の方に全身で向き直って、救いの恵みをいただけば良いのです。私たちの救いに必要な全ては主イエスが十字架にかかってくださり、復活してくださり整えられています。

 

(2月5日礼拝説教要旨)

「私たちは神の作品」エフェソの信徒への手紙2:1-10

 

 「わたしたちは神に造られたもの」(10節)口語訳聖書では「わたしたちは神の作品」と訳されていました。私たちは偶然に生まれた無意味な存在ではなく、一人ひとりが神の作品だと聖書は語ります。私たちが神の作品ということは、神が私たち一人ひとりの存在を望んでくださっているということです。神が前もって準備してくださっている善い業のために私たち一人ひとりが創られたのです。性別、年齢、体力、能力の差を越えて神が私たちの存在に目的をもっておられます。私たちが、神が前もって準備された善い業を行って歩むことが出来るのです。それはキリスト・イエスにおいて創られたからです。

 「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(1節)とあります。ここで語られているのは肉体の死のことではありません。「死んでいた」というのは神との交わりをなくしてしまっていたという意味です(ルカ15章参照)。 

 神から離れ、神の作品としての姿をなくしてしまった私たちを愛してくださり、再び生かしてくださいます。神と私たちの交わりの回復のためにイエス・キリストが十字架にかかってくださいました。十字架の恵みによって、神の作品として創りなおしていただけるのです。 

一般的に人は、自分の行いを人から評価されるときに、充実感や自尊心を感じます。けれども、人と比べて劣ってることに目がいく傾向があります。私たちの存在の意味は行いを越えたところにあるのです。私たちは存在しているだけで価値があるのです。神が創られたゆえに私たちに価値があるのです。ブランド品は、素人には価値がわからないこともあります。けれども、それがブランドものであると知ったら急に価値あるものになってしまうことがあります。私たちはそういうブランド品に勝った存在なのです。神が独り子を十字架にかけてくださって、再び生かしてくださるほど大切な作品なのです。「主イエスの焼き印を身に受けている」(ガラテヤの信徒への手紙6章17節)主イエスの焼き印を身に受けているというのは、私たちが神の作品として品質が保証されていることです。

 誰が何と言おうが、価値ある者としてキリストが生かしてくださるのです。人と比べなくても良いのです。一人ひとりが人と同じではない特別な個性の持ち主です。神の眼からみて私たちにもそれぞれに存在の目的があるのです。自分が神の作品であることを知って、自分を受け容れられたら、今度は全てが神の作品であることへと目が向けられて行くのです。

 

(2017年元旦礼拝説教要旨)

「救い主と出会う旅」ルカによる福音書2:1-5

 

 聖書のクリスマスの出来事を読むと旅が必要だったことを覚えます。マリアとヨセフ、羊飼いたち、そして占星術の学者たちもそれぞれの旅をしています。マリアとヨセフは住民登録のための旅に出なければなりませんでした。目的地はベツレヘムでした。 長い距離の旅です。自分たちの町を支配しているローマに税金を払うための住民登録の旅です。できれば避けたい旅です。身ごもっているマリアにとっても、共にいるヨセフにとってもこの旅は、厳しいものがありました。けれどもそこで赤子の救い主と出会うことになります。

その赤子こそが救い主。ここがつまずきを与えるところです。けれども私たちの思いを満たすような救い主なら、信じられるでしょうか?聖書の記事は、徹頭徹尾、人間の思いと神の思いがいかに違うかが示されています。神のなさることは、人間の知恵で理解しようと思うと無理があるのです。

信仰の父祖と呼ばれるアブラハムは、約束の地を目指して旅立ちました。そしてその先々で、神と出会う経験をしていくのです。旧約の民がエジプトを脱出して約束の地にたどりつく旅もそうです。この旅は順調に進んだら40日もあればつくはずの旅です。それが40年もの旅をしています。この旅によって神が共にいてくださる経験を積んでいくことになるのです。

 私たちの人生も旅にたとえられることがあります。目的地はどこでしょう? キリスト者の目的地は天の神の元にあります。その旅の途中で思ってもいなかったような所で救い主とお会いします。その繰り返しです。人生の苦難や悲しみ、厳しい所で主イエスと出会います。そしてそこにおいて自分が考えていたような御利益的な形で問題が解決するという形ではない救いがあることに気づかされます。

 今日のベツレヘムの馬小屋は教会の礼拝と行っても良いのです。礼拝に出たから、自分が抱えていた問題が解決するわけではありません。けれども、礼拝の場において確かに救い主がおられることを覚えます。そして礼拝から遣わされた日々も主イエスが出会ってくださる経験をもちます。私たちの救いを完成してくださるために主イエス・キリストがクリスマスに来てくださったのです。私たちの旅は、もはや一人ではありません。主イエス・キリストが共にいてくださり、救いを完成してくださる旅なのです。

 

  (12月18日礼拝説教要旨)

「主よ、来てください」コリントの信徒への手紙一16:10-24

 

 「マラナ・タ(主よ、来てください)」(22節)は教会にとって信仰を表す大切な言葉です。マルコによる福音書13章にも主イエスがご自身が言われた言葉があります。主イエスはクリスマスの出来事によって地上に来てくださいました。そして十字架にかかられ、復活し、天に昇られました。その主イエスがもう一度来てくださるのです。再臨の信仰が教会には昔からあるのです。

 けれども、どういう意味で主よ、来てくださいなのか、そこが問われます。自分の抱えている問題があって、主イエスが来てくださってその問題を解決してくださいという意味に考えてしまうこともあるかもしれません。自分の都合だけで来てくださいと思うことが多いのが人間です。

 主イエスの再臨の目的は私にとって都合が良い御利益を与えるためではなく、罪の問題のない救いの完成にあるのです。コリントの信徒への手紙一15章20節以下にキリストは全ての支配、権威、勢力を滅ぼして、神のご支配が完成することが言われています。そこに私たちの救いもあるのです。

 現在、私たちが味わっている問題はすべて罪の問題から生じています。罪の問題ゆえ人生が振り回され翻弄されます。そういうところにあって、信仰が与えられた私たちは主イエスキリストの十字架と復活によって神の恵みのご支配が確立していることを信じて生きることができるのです。けれども時には苦しみに負けて、神のご支配を見失ってしまいます。

 主の再臨の時に今は隠されている神のご支配が明らかにされ、目に見える形で確立するのです。そして神国が完成するのです。神の国が完成した時に、私たちの罪の問題もなくなり苦しみは終わるのです。その時には最後の敵である死も滅ぼされ、今の朽ちる身体が朽ちない身体へと変えられるのです。

 私たちを最終的に支配するのは死ではなく、イエス・キリストです。主が再び来られた時に全てが明らかになります。そしてその時に非のうちどころのない者としていただけるのです。その時まで主がしっかりと支えていてくださるのです(1章8節)。主が再び来られて全ての救いが完成します。そこにおいては罪の問題のすべてがなくなり、主イエス・キリストだけが全てを治められていることが明らかにされ、私たちに復活の身体が与えられます。そういう救いが完成する主の再臨を覚えて、「マラナ・タ」「主よ、来りませ」と希望をもって歩んでいくことができるのです。

                                                    (11月13日礼拝説教要旨)

「死に勝つ道」コリントの信徒への手紙一15:12-34

 

 教会は、キリストの十字架の贖いと復活を伝え続けています。確かにキリストが私たちに代わって十字架にかかってくださり、復活してくださったからです。そこに死をも越えた救いの根拠があることを信じているのです。けれどもコリントの教会で身体の復活が不確かになってしまった人々がいました。今、もう既に魂において永遠の命をいただいていて、死んだらそれが完全なもの  になると考える人たちがいました。現代でも聖書でいう永遠の命というのはあくまでも魂の問題であって、肉体の復活は関係ないと思う人々がいます。

 パウロはそういう人たちに向かって「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(13節)と言います。キリストの復活は、「初穂」(20節)であり、私たちにも身体のよみがえりを与えるためだと語ります。イエス・キリストが十字架にかかって復活してくださったことによって、私たちにも身体のよみがえりの道があるのです。

 身体のよみがりは、朽ちない身体です。痛かったり、苦しんだりしない身体が私たちにも与えられるのです。私たちはそういう  救いが完成する世の終わりの時を待ち望みつつ生きることができるのです。「世の終わりが来ます。その時、キリストは全ての支配、全ての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストは全ての敵をご自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます」(24-26節) 世の終わりには、キリストのご支配が全てのものに及んでいることが明らかになるのです。今、私たちの世界では他の力の方が強いように見えます。この世の力や、病気や自然の災害の力の大きな力があります。私たちは様々な力の前で無力さを覚えます。けれども世の終わりにはイエス・キリストがそういう力を全て滅ぼされるのです。キリストに敵対する力をご自身の足の下におかれます。そこにおいて最後の敵、死も滅ぼされます。

 死は私たちを支配している最後の敵です。どんなにがんばっても私たちにはこの敵に勝つ力がありません。けれどもイエス・キリストはこの死の力をも滅ぼされます。復活されたイエス・キリストのご支配が確立することによって私たちを支配していた死も滅ぼされ、私たちはそこから解放され、復活の朽ちない身体が与えられるのです。復活のキリストに希望をもって、私たちにも身体の復活が与えられることを信じて歩んでいくことができるのです。

                                                   (10月23日礼拝説教要旨)

「最高の道」コリントの信徒への手紙一12:31b-13:3

 

  霊の賜物の最上のものとして愛が語られています。愛を語る時に、自分には愛のないことを思い知らされます。コリントにはいろいろな宗教がありました。儀式の中でどらやシンバルが鳴らされたようです。目立つ賜物を誇るだけで、そこに本物の愛がないなら大音量の雑音といっしょだと聖書は語ります。(1節)

「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも、愛がなければ、無に等しい」(2節後半)もし山を動かせばみんながいやでも認めます。愛はそういう派手な世界だけではありません。むしろ地味なことが多い。私には完全な信仰があると言っても、その人に愛が無ければ何にもなりません。

間違った信仰をもたないためには隣人との交わりが大切です。そしてその時々の愛の応用問題に関する応えが必要なのです。これが絶対という答えはありません。その人を思いやるということが先にあって、形は臨機応変になるのです。

 当時のユダヤ教に生きる人の中に全財産を施し尽くした人がいたようです。(3節)さらにギリシャの哲学者の中にもっとすごい人がいたようです。困っている人を助けるため自分のからだを奴隷として売るような人もいたようです。それでも、そこに本物の愛がないと言います。4節以下のところで出てくるように本物の愛とは違います。

 人間の世界の愛らしいものをかき集めてもどうにもなりません。無いものをどうすることも出来ません。自然に備わっているといわれる愛に似たものが、どんなに不確かで、自分の利益のためにくずれ去って行くものなのか、知っているはずです。本物の愛は自分の利益を求めません。忍耐強いものです。

 礼拝も、本当の愛がなければ、どんなにきれいな祈りの言葉も、説教の言葉も、音楽もやかましいどらと変わりありません。誰でも自分には愛があるなどと思ってはいけません。本物の愛を持っているキリストによって生きる必要があります。本物の愛のない私たちがキリストの十字架の救いによって赦され、救っていただけるのです。キリストが私たちの中に生きて働いてくださり、キリストの体として教会を生かしてくださいます。それは聖霊の賜物によることなのです。聖霊の賜物が与えられ、私たちが十字架のキリストの愛によって生かされます。お互いに欠けのある者が同じ十字架の赦しによって生かされ、ゆるし合っています。それが明らかになっているのが礼拝の場です。聖霊の賜物が与えられ、十字架のキリストを仰いで、キリストの体として生きていきます。これこそが最高の道なのです。

 

(9月14日礼拝説教要旨)

「一つ」コリントの信徒への手紙一12:12-31a

 

「一つ」と言う言葉が何度も出てきました。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分」(27節)ばらばらのように見える私たちが同じキリストの体の一部なのだといいます。私たちに同じキリストの十字架の血が流れているのです。けれども、残念ながら本当にこの実感をもっている人は多くはいないと思います。キリストの十字架の血のめぐりが悪いと気がつかないのです。

13節で上げられた4つの違った立場の人たちが、一つのところで同じ信仰生活をしています。この当時の人の常識からいえば、かなり難しいことだったと思います。そこでは、ある人たちだけが教会の中で大きな顔をして、他の人たちが小さくなってしまう、ことも起きます。けれども信仰の目を持ってみると差別はありません。どの人も神の前には同じ罪人の一人に過ぎません。

 「キリストの体」というのは、キリストだけが支配して良い所です。他のものが教会において支配することはあってはいけないのです。教会の大きな問題の一つは、誰が支配するか、ということにあります。それはキリスト以外の人間が支配することです。そうではなく、あらゆる人が贖いの十字架の前にひれ伏すことが教会にとって欠かせないことなのです。

 教会という体には多くの部分があります。違った部分によって造られています。その中には弱く見える部分も、麗しくない部分も必要なのです。信仰の目をもって、お互いに弱さをあばくようなことをしないで、いたわりあってキリストの体を形成していくことが求められています。多くの違いがあるにもかかわらず、一つの体とされているのです。そのことが本当に分かっていれば、人が自分とどんなに違っていても、どんなに変わっていても邪魔者にしません。自分の思いとは関係なしにその人もキリストの体の一部とされている事実が見えて来るのです。見えてこないのは自分の思いが大きいからです。キリストの十字架の血のめぐりが悪いからです。

   キリストの十字架の贖いによって罪赦され、一つとされている。日常の生活の場も賜物も異なっていますが、その人の罪、私の罪をイエス・キリストの十字架によって贖っていただくという所において一つとされています。聖餐の食卓において「キリストの体」が示されています。信仰をもってパンと杯の恵みに与る時、私たちの頭の先から、足の指の先までにキリストの血が行き渡るのです。キリストのご支配が全身に行き渡っていくのです。礼拝の恵みによって、一つの体とされていることを覚えることができるのです。                                                          

 

 (8月14日礼拝説教要旨)

「目標をめざして」コリントの信徒への手紙一9:19-27

 

今日の聖書の箇所の背景にはスポーツ大会があります。スポーツ大会の時に驚くべきことが実現していました。競技の季節になると人々はいっさいの日常生活をやめて備えました。戦争で戦っている軍隊も戦いを中止したそうです。そして競技場に集まったら、敵、味方、言葉、政治、宗教、主義主張を越えてスポーツによって一つになれました。そういう背景を共有している人たちを更に大きな世界へといざなっています。教会には、それを越えた一つになれる世界があるのです。

  「あなたがたも賞を得るように走りなさい」(24節)ここで言われていることは一番になれというのではありません。信仰生活というのは人に勝った負けたというようなものとは違います。敵を間違ってはいけません。たとえられて言いたいことは、自分の走るべきコースを走り抜いて、「朽ちない冠」(25節)という賞を得ることです。

 神がくださる朽ちない冠を受けるために走り続けます。信仰生活の目標は救いの完成です。最後まで走り続けることが大切なのです。ゆっくりで、人から見たら走っていないように見える走り方でもゴールまでたどりつくことが大切なのです。それぞれのペースで、ゴールを目指して走り続けることが必要です。

 目標がはっきりしないと違うゴールにたどりついてしまいます何のために礼拝しているのか、何のために祈っているのか、そこが分かっていないとどんなに熱心でも「空を打つような拳闘」(26節)となってしまいます。私たちが、朽ちるものを求めているのか、それとも朽ちない救いを求めているのか、ということが問われます。目標さえはっきりすれば、私たちの小さな弱く見える努力も、力をもって来るのです。

 パウロは本気で自分の競争を走り抜きました。「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共に与る者となるためです」(22-23節)パウロは肉も食べないと言ったのも、いっさいの権利を放棄すると言ったのも、「何とかして何人かを救うため」だったのです。一緒にゴールまで完走するためでした。

 私たち一人ひとりの周りにも「何人か」を神が与えてくださっています。そういう人たちと共に敵も味方もなく、主義や主張や趣味の違いをも越えてキリストにおいて一つとなって、天を仰いで神の国を目指して走り続けていきたいと願います。それぞれのペースで、完走して、共に救いの朽ちない義の冠をいただくことが出来るのです。

 

 (7月3日礼拝説教要旨)

「はじめての方と共に」コリントの信徒への手紙一14:24-25

 

  伝道にこうすれば成功するというマニュアルのようなものはありません。主イエスご自身が伝道されていますが、信じない者もいました。けれども主イエスと出会わないと聖書の語る救いはありません。主イエスと出会う、その助けとなるように教会に慣れていない人たちと交わりを持ったら良いのか、ご一緒に考えていきたいと思います。

 主イエスと出会う、それは礼拝の場において出会うのです。その礼拝で求道者が、神に対する畏れを感じられないなら、その礼拝のどこかに問題があるのです。

 私たち一人ひとりは罪人で限界はありますが、礼拝の場に集められている人全体で、神の前にひれ伏すような思いをもっているなら、そこに初めての人が来て、「まことに、神はあなたがたの内におられます」(25節後半)という思いをもってもらいやすくなるのです。

 共に礼拝している人と共に教会を形成していく言葉があります。預言の言葉とはそういう言葉です。相手を裁くような言葉ではありません。裁きの言葉は世の中にあふれています。教会は、違う言葉が必要なのです。十字架の救いの語られる言葉が大切なのです。神の言葉が語られるとき、そこに呼び集められた人が神を拝まざるを得なくなります。

 御言葉によって、神がそこにおられることが明らかにされ、神の御前に出ると、自分の罪の問題が明らかになります。これは初めて礼拝に出席した人だけでなく、礼拝している全ての者の告白です。世の終わりには、最後の審判があり、救いの完成があります。そこで起こることが、今この礼拝の場で実現しているのです。神の前に、神にだけ心の秘密があばかれます。そして、ひれ伏さざるを得なくなります。

 礼拝でキリストと出会う。そして、信仰を告白するに至り、洗礼を受けます。以前は信仰を言い表せなかった人が、礼拝の場でキリストと出会うことによって、信仰を告白する者とされるのです。そして信仰を言い表した時だけではなく、信仰を告白した後も礼拝の場においてキリストと出会っているのです。

  今、この礼拝の場にもキリストはおられるのです。先にキリストと出会った私たちが、神を畏れ敬う礼拝をしているので、後から来た人が礼拝の場においてキリストと出会うことが出来るのです。何よりも私たちが十字架の恵みをいただき、神の御臨在を示す礼拝者となることが、初めての人を迎えることにつながっていくのです。教会に来て間もない人に礼拝でイエス・キリストと出会っていただく、そのために何が必要か、共に考えていきたいと思います。

 

 (6月19日修養会 礼拝主題説教要旨)

「ペンテコステ」使徒言行録2:1-13

 

  世界中の教会でペンテコステをお祝いしています。この日に最初の教会が誕生しました。世界中のどこの教会も溯っていくなら、今日の聖書の記事までたどりつくのです。 「『あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言ってあざける者もいた」(13節)教会のすることは、この世の計算ではあっていないかもしれません。マタイによる福音書20章に「ぶどう園の労働者のたとえ」があります。夜明けに雇われた人と午後5時ころ雇われた人が同じ賃金をもらう話があります。この世のそろばん勘定とはあわなくて良い世界が教会にはあるのです。

 ペンテコステの日に主イエスが約束してくださっていた「聖霊」が与えられました。「聖霊」が与えられるというと目に見えるような劇的な変化を期待したいところです。もちろん、そういうこともあるでしょう。けれども、神の言葉を共に聞くことにおいて何よりも聖霊の働きがあらわされているのです。「すると、一同は聖霊に満たされ、″霊″が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した」(4節)ガリラヤ出身者が大半である弟子たちが、多くの国々の言葉で、神の偉大な業について語り出しました。この人たちが語り出したのは、「神の偉大な業」でした。

 今の私たちには聖霊が与えられているのだろうか、と思う人もいるかも知れません。あの時代の弟子たちのような形で今の私たちに劇的な変化がおきなくても、確かに聖霊が与えられているのです。聖霊なる神が私たちに働かれているとき、必ず何か起きています。聖霊なる神と交わるとき、今までと同じ私たちは存在しないのです。日々新たにされています。目に見えるような劇的な変化はなくても質的に変化が起きているのです。

 日本の教会の伝道の不振は聖霊が働いていないからではありません。聖霊はイエス・キリストを証しし、告白させる真理の霊、神として今も働かれています。日本のキリスト者は少数です。そうであるにもかかわらず、教会が存在しています。教会員の数が少ない教会でも礼拝は毎週行われています。ある国の人に言わせるとこういう小さな教会が存続していること事態が不思議といいます。確かに聖霊なる神が日本の教会にも働いているのです。私たちの教会にも最初の教会と同じ聖霊が確かに与えられているのです。私たちにも聖霊が働いておられます。聖霊が、主イエス・キリストの救いを私たちの内に形作ってくださっているのです。そのことを聖礼典の恵みにおいて見ることがゆるされています。洗礼式、そしてパンと杯において天上のキリストと私たちが確かに一つとされていることを覚えることができるのです。                                                      

(5月15日礼拝説教要旨)