「キリストと同じ姿につくりかえられる」コリントの信徒への手紙二3:7-18

 

 貧しくて、ほこりっぱくて、弟子たちにも見捨てられた十字架にかかられた主イエスと同じになりたいとは思わない人が多いと思います。けれども、復活の主イエスなら話は変わってきます。神の御子と同じ姿につくりかえられるのです。

 「栄光」(18節)ローマの信徒への手紙6:4b「それは、キリストが御父の栄光によって、死者の中から復活させられたように」栄光は、神の力です。今、私たちは神を礼拝していますが、ここにおいて神の栄光が現されているのです。7節以下で神の栄光が、契約と結び付けて語られています。新しい契約のことがエレミヤ書31章にあります。新しい契約は「罪の赦し」の宣言からはじまるのです。これが覆いをとる大前提です。人間の力では覆いはとれませんが、イエス・キリストにはできます。「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(16節)イエス・キリストゆえに顔に覆いなしに見えることができるようにしていただけます。罪人である私たち一人一人が、神の栄光を見ることがえきるようにしていただけるのです。

 「わいたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿につくりかえられて行きます」(18節)私たちがキリストの罪の赦しを受け、それを信じて歩み続けるなら、私たちも主と同じ姿へと変えていただけるのです。

 十字架の恵みによって救われた私たちですが、罪人であることに変わりありません。キリストを信じても罪を重ねています。それでも私たちは栄光から栄光へと主イエス・キリストと同じ姿に変えられていくのです。罪人であるにもかかわらず、主の十字架があるので私たちに罪がないかのようにみなしていただけるのです。

 主の十字架の恵みによって、栄光を少しずつ私たちに照らしてくださるのです。信仰のなかった時と今は違います。外から見たらたいして変わらない、あるいは衰えている部分が増えているかもしれません。けれども、神が栄光を少しずつ照らしてくださっているのです。信仰を持つ前の私と今の私では質的に違うのです。

たしかに今は何事も不完全です。神を信じているのに弱さや欠けを持っています。けれども、主イエスの十字架によって罪赦された者としてくださいます。信仰を持ってもこの世にあるので、おぼろげにしか神を見ることができません。けれども救いが完成する終わりの「その時」に顔と顔を合わせるように神を見、神を愛することができる者とされているのです。今、神が栄光を少しずつ照らしてくださっているのです。主と同じ姿とされ、完全に神を礼拝できるようにしていただけるのです。

 

(9月9日礼拝説教要旨) 

「勝利の行進」コリントの信徒への手紙二2:12-17

 

 神はキリストの勝利の行進に連ならせてくださる(14節)と言います。そういうと特別な人のことかと思うかもしれません。そうではないのです。キリストが凱旋将軍になって勝利の大行進をされます。この表現の背景にはローマの凱旋の様子があります。その時に勝利したローマが、負けた国の人たちを鎖につないで行進しました。その様子と重ねて、キリストの勝利の行進の行列の一番最後に鎖でつながれて引かれていく捕虜の中にあらゆるキリスト者がいるのです。私たちのために十字架にかかり、復活してくださった方が鎖につないでまで神の国へと引っ張ってくださいます。

 私たちはこの勝利の行進において、キリストの勝利を指し示す者なのです。ローマの勝利の行進には、良い香を振りまくという習慣があったようです。「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」(14節) 私たちは多くの欠けや弱さや破れを持つものです。けれども、そういう者がキリストの香りを放つものとしていただけるのです。

 「香り」にも様々あります。香りと似た使い方をするものに「臭い」があります。香りは、最近は香害のように悪いものにまで使われるようになりましたが、基本的に良いにおいのときに使います。「臭い」は、くさいとも読むことのある字。悪いにおいです。「臭う」という字は漢字で、自分の字の下に大きいという字を書きます。自分を大きくという字を書きます。自分を前に押し出すのは自分の臭いしかしません。自分の臭いというのは、本人は意外と気がつかないことが少なくありません。知らないうちに悪臭を放っていることがあります。キリストを信じて洗礼を受けて、キリストの者とされた私たちも知らないでいると悪臭を放っていることがあります。

  悪臭を放たないように礼拝で清めていただくことが大切です。礼拝の場においてはただ神だけが大きくなります。悪臭が礼拝の場においてはなくなって、上品なキリストの香りがただよう者とされるのです。

   キリストの香りを放つ。ということは何か特別な大きなことをするということではありません。私たちが本当にあの十字架の主イエスと結ばれているなら上品な香りがただようのです。その香りは、特に気をつけなくてもいつの間にか広まっていきます。

 鼻の悪い人に、この香りは届きにくいかも知れませんが、主イエスに結ばれている人から確実にキリストの香りが放たれているのです。その香りをかいで、この勝利の行進へと加えられる者が起こされようとしているのです。

 

(8月12日礼拝説教要旨)

「確かな福音」マルコによる福音書16:14-20

 

 「11人」(14節)これは弟子たちのことです。12人の弟子のうちユダは裏切ってしまいました。その11人は、ユダと違って主イエスに最後まで従い通せませんでした。弟子たちは、主イエスが捕らえられる時にみんな逃げ出してしまいました。そういう弟子たちの前に復活の主イエスが現れてくださり、彼らを遣わします。

 特別な訓練をしてからというのではなく、欠けのあるまま主イエスが用いてくださるのです。復活された主イエスが弟子たちより先にガリラヤへ行って、そこで待っておられました。そこに主イエスの弟子たちに対する大いなる赦しの恵みが示されています。主イエスを裏切って、もう弟子と呼ばれる資格のないような人たちを、主イエスは十字架で赦してくださり、もう一度ご自分のもとに迎えてくださいます。

欠けをもった私たちを主イエスが礼拝の場に招いてくださり、私たちを赦してくださり、私たち一人ひとりを新しくしてくださいます。礼拝の場において繰り返し聖書の御言葉を聞き、聖霊において復活の主イエスと出会い、しなやかな心をもつ者としていただけるのです。主イエスを信じられなかった者が信じられるように造り変えていただいているのです。それは私たちが救われるためです。そしてまだ主イエスと出会っていない人が救われるために私たちを弟子として用いてくださいます。

 主イエスの弟子になるということは、特別な人のことではありません。キリスト者のすべてが主イエスの弟子なのです。厳しい学びを済ませた優等生だけが、主イエスの弟子になれるのではありません。そのような集団を目指しているのが、教会ではないのです。主イエスの目から見たら、みな弟子失格です。そういう人間が十字架の恵みによってキリスト者としていただけるのです。どんな人でも、主イエスの十字架の恵みによって、キリスト者としていただけます。そのために主イエスが洗礼を定めてくださったのです。

 不信仰とかたくなな心をもった私たちが礼拝の場において繰り返し聖書の御言葉を聞き、信じる者としていただけます。そして、私の次の人が救われるように主イエスを指し示し祈る者としてくださいます。

不信仰とかたくなな心をもった私たちを主イエスが自ら十字架にかかられて赦してくださいます。ここに確かな福音があります。世の中がどんなに変わろうと変わることのない救いがここにあります。

 御言葉を通して復活の主イエスと出会い救っていただき、次の人が救われるため確かな福音を伝えるの器として用いていただけるのです。

(7月1日礼拝説教要旨)