「人の思いをはるかに越えて」マルコによる福音書12:1-12

 

  このたとえが示しているのは、神が神から離れ逆らい続ける民にしつこく預言者を遣わされましたが、民はその預言者たちを殴り、侮辱し、殺してしまいまった歴史的な事実です。神は、神ご自身に背くようなイスラエルを決して見捨てません。

 何人もの僕が痛めつけられたり、殺されたりした後、ブドウ園の持ち主は最後に自分の子を送ります。自分の子なら敬われると思ったからです。けれども、息子も殺されてしまいます。ここに私たち人間の罪が表わされています。なぜブドウ園の持ち主は乱暴な農夫のいるところにどうして息子を武装した軍隊と一緒にというのではなく、一人で行かせたのでしょうか。私たちの思いをはるかに越えています。神が独り子であるイエス・キリストを遣わしてくださったということは、普通では考えられないことが起きているのです。このたとえを通して父なる神の愛、そして主ご自身の愛を示してくださっているのです。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(10節)「隅の親石」という石について二つの説があります。一つは、家の角に置かれた重要な土台の石です。もう一つの説は、アーチの一番大切な石です。アーチの真ん中にその石がはめ込まれることによって、石が互いの重さでしっかりと動かなくなります。二つの説いずれにしても一番大切な石です。その石のおかげで、他の石が生きるのです。この隅の親石があることによって、それまで死んでいた石が生かされるのです。救いの専門家の祭司長や律法学者たちや長老たちが捨てたイエス・キリストこそが、救いの基となったのです。

 イエス・キリストは十字架で葬りさられたのではなく、復活の主として全ての人間の救いのために神の主権をうちたてられました。私たちにはこのお方が隅の親石としていてくださるのです。この親石さえあるなら、私たちは弱くても欠けていても、生かされるのです。アーチの真ん中に親石がはめ込まれることによって、ほかの石が互いの重さでしっかりと動かなくなるように救いから離れないのです。それぞれの石は、大きな石もあれば、小さな石、変な形をしている石もあります。一つ一つはばらばらな石ですが組み合わされるときにどれも必要な石なのです。

 弱くて至らない欠けの多い罪人の私たち一人ひとりが教会の欠かせない石として積み上げられているのです。一人ひとりは欠けのある罪人に過ぎませんが、そのような私たち一人ひとりをキリストが十字架で清めてくださり、キリストのからだの一部として組み合わされてています。神から預かった場において収穫を待つことが出来るのす。

(2月25日礼拝説教要旨) 

 

「恵みを思い起こして」テモテへの手紙二2:8-13

 

 パウロは牢の中にいます。パウロは一方で元気をなくします。けれどももう一方でそこに神の御業をみることを忘れていません。私たちにも似たようなことがあると思います。キリストが本当の救い主だと信じています。けれども主イエスの弟子たちと同じで、何かあったら信仰を投げ出してしまうかも知れない自分もいます。

  パウロも泣いたり、悲しんだ時もありました。 パウロは一方で弱さを持った人間です。若い弟子の助けをも必要としています。けれどももう一方で教会を信じています。揺れ動いて良いのです。大切なのは弱さと確信の間を揺れ動いていたとしても、教会の信仰が救ってくれるということです。私たち一人ひとりの歩みで、泣く時もあります。苦しむ時もあります。わたしたちの信仰には教会という礼拝共同体が必要です。教会の信仰によって救っていただくのです。確かに一人ひとりの人間には欠けも弱さもありますが、教会の信仰によって救っていただけるのです。

  ですから教会の頭である「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」(8節)と言うのです。パウロがキリスト者として、伝道者として立っていられるのはパウロの信仰が強かったからではありません。イエス・キリストが生きておられたからです。キリストを信じる教会の信仰によって私たちは救われました。私たちを救うのは人間の力でなく、神の御業なのです。キリストは私たちの救いに必要なすべてのものを与えてくださっています。どんな人にでも救いを与えていただけます。たとえ私たちが立派に歩めないことがあったとしても、世間の目から評判良く映らなかったとしても、キリストが私たちを裏切られることは決してありません。キリストは救いを求める者にあなたはダメとは言われません。私たちの目から見てどんな人であっても例外なく救ってくださいます。

  私たちの弱い信仰が救いをなくしてしまうのではありません。教会の信仰が私たちを救ってくださるのです。キリストの方が私たちを捕らえてくださるのです。キリストは常に真実です。「キリストは御自身を否むことができない」(13節)キリストは私たちを購うために十字架にかかってくださいました。これがキリストの真実です。その救い主であるキリストを思い起こすのです。これは特別なことをするのではありません。礼拝の中でイエス・キリストを思い起こします。また日々の生活においても私たちは十字架と復活のイエス・キリストを思い起こすことができるのです。

(元旦礼拝説教要旨)

 

「クリスマス」  ルカによる福音書2:1-7

 

 世界中の教会でクリスマスをお祝いします。クリスマスは、主イエスが生まれてくださったことをお祝いする時です。どうして主イエスが生まれてくださったことが、私たちにとってのお祝いなのでしょう。私たち自身の誕生日以上の意味があるのです。世界の歴史の中でこれ以上に喜ばしいことはないのです。

 主イエスは確かに生まれてくださいました。ただの昔話ではなく、神の御子が人となって、救い主としてこの世に来てくださったのです。この時、自分の種族の出た町で登録しなければならないというルールがありました 二人にとっては楽な旅ではありません。それも自分たちの町を支配しているローマに税金を払うための登録をする旅です。正直言って出来れば避けたい旅です。

 ヨセフもマリアもいきなり天使にマリアが聖霊によって身ごもったと言われました。マリアにしてもヨセフにしても最初は何が起こっているのか分かりませんでした。いろいろな葛藤があったと思います。マリアもヨセフも自分たちの身に起こる神の御業を、生まれて来る子を受け容れる思いをもって、二人で登録に行くのです。そして、マリアは子を産みます。馬小屋で主イエスはお生まれになりました。

 救い主は普通の赤ちゃんとして生まれました。罪という点を除いて他の人間と全く変わらない一人の人間としてこの世に入って来てくださいました。赤ちゃんですから、周りの人の助けと支えがないと生きていけません。普通に考えたら、逆です。救い主が人間を助けてくれるはずです。赤ちゃんですから、救い主には見えません。けれども飼い葉桶に寝かされている方が本物の救い主なのです。

 主イエスは馬小屋で生まれてくださいました。それは汚い所まで来てくださる救い主を意味しています。私たちには自分自身でも見たくない醜いところがあります。ふだんはそういう所を見ないふりをしたり、蓋をしてごまかすこともできるかも知れませんが、どんな人でも心の中、お腹の中に罪の問題を抱えています。

  聖書の語る救い主は、信仰の優等生のきれいな部分だけ救うような救い主ではありません。神の目から見て汚いものを持っている人の醜い所まで来てくださり、そういう所のある私たちをまるまる救ってくださる方なのです。神はどろどろした汚いところを持っている罪人である私たちを救ってくださるために独り子を遣わしてくださいました。この様な出来事は、歴史上、他にないのです。どんなに大きなニュースがあったとしてもクリスマスに勝る喜びの出来事はないのです。

(クリスマス礼拝説教要旨)

 

  「味方」マルコによる福音書9:38-41

 

  私たちは敵をつくりたがる傾向があります。敵、味方に分ける世界は、自分の居場所をつくりやすいかも知れません。けれども、それが普遍的な本当の居場所かは疑問です。敵を間違ってはいけないのです。私たちにとって本当に恐ろしい敵は、キリストの十字架の贖いの恵みから引き離そうとするものです。

 主イエスの名を使って悪霊を追いだしている人がいたと手柄を立てようとしてヨハネが主イエスに報告していることが38節にあります。ヨハネの言葉をよく見てみると主イエスに従わないというのではなく「わたしたちに従わない」(38節)ことが問題にされています。

 主イエスは、そんなヨハネの思いを打ち砕かれます。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方である」(40節)と言われます。主イエスにお仕えしながら、人と比較します。弟子たちの間で比べ、その他の人とも比べます。あの人と自分は違います。そうやって敵をつくり出して行きます。そういう思いが問題なのです。人と比べなくて良いのです。敵も味方もありません。 

 明らかに神に逆らわない限り、味方として理解して良いと主イエスは言われます。「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(41節)私たちがキリスト者であることを知って水を飲ませてくれるなら,その人も味方だと言われます。私たちが信仰を持つこと、私たちが教会に行くことを悪く言わない人、少なくとも反対しない人、受入れてくれる人は味方だと主イエスは言われます。

  主の十字架を仰いで自分と言う罪人も赦されている恵みの世界から隣人を見て行く世界があるのです。神と向き合って、自分の罪の問題を見つめます。自分自身が神の敵であったことを覚えます。その敵であった私たちの味方となってくださる方がいるのです。

  主イエスが十字架にかかってくださり、私たちの罪を赦してくださるのです。主イエスの十字架の前で人のことを裁けなくなります。そして、あの人もこの人も敵ではない世界が見えてきます。そこに見えてくるのは敵ではなく、味方です。違いを裁きあって敵をつくるのではない世界が示されています。裁きあって敵をつくって、自分の居場所を確保するのではない世界が待っています。過ちを許し合い、共に十字架の主イエスをあがめていく世界が広がっているのです。

(11月19日礼拝説教要旨)

 

「信仰を言い表そう」マルコによる福音書8:27-30

 

  主イエスはエルサレムに向かう遠回りの道の途中で「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問われます。 当時の人は、28節にあるように「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の一人」と答えがあります。主イエスを優れた人間の一人として考えていました。

 主イエスは世間の人々の思いを聞かれた後で、弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(29節)と問われます。 

  この問いは「あなたがた」に向けられたものです。そしてそれは今の私たち一人一人にも向けられているのです。その問いにペトロが代表して答えてくれます。「あなたは、メシアです」(29b)メシア=救い主です。ただの先生とも預言者とも違います。罪によって失われてしまった神の祝福を回復し、神の民をあらたに集め、歩み出させて下さる方と言う信仰を言い表しています。その告白は、世の人が主イエスのことを預言者や教師として敬う思いを持つのとは違っています。世の人たちにとって、主イエスは、あくまでもナザレの一人の人間に過ぎません。自分たちが教えを聞いて、それを実行していくことによって、救いを得ようとします。自分たちが暮らしやすい国を求めます。そこには人間の罪の問題は入っていません。

 それに対し、ペトロは主イエスこそ、救いを実現し、与えてくださる方とその信仰を言い表しています。人間は自分たちの力で罪からの救いを得ることは出来ません。主イエスの力によってのみ救いを与えていただけるという信仰を言い表しているのです。この信仰告白こそ、教会の信仰の土台です。いつの時代も教会は、この土台の上にたっています。キリスト教はイエス様こそが、罪からの救い主であると信じているのです。

  ナザレの一人の人間の教えを人生教訓として聞いて、それにならって生きようとするのとは違います。人格者になることが救いではありません。罪人である私たちですが、救いを一方的に与えていただけるのです。私たちが良い人になったから、救いが与えられるのではありません。神の目から見て罪の問題を抱えている私たち一人ひとりですが、そういう私たちの代わりに主イエスが十字架にかかってくださったことによって、救いを与えていただけるのです。

  ペトロは不完全な信仰しかもっていません。主イエスが十字架にかかられることになる前に捕えられたとき、主イエスとの関係を否定し、「知らない」と3度も言ってしまいます。そういうペトロですが、「あなたはメシアです」と信仰を言い表し、信仰を全うし、ローマの皇帝ではなく、主イエスを拝みました。

  主イエスは私たちにも問われます。「わたしを何者だと言うのか」

(10月1日礼拝説教要旨)

 

 

 「恵みを求めて」マルコによる福音書7:24-30

 

  ティルスにおられる主イエスのもとに一人の異邦人が訪ねてきます。異邦人の町にも主イエスを求めている人はいます。けれども、この当時、異邦人がユダヤの人に願い事をすることは、あり得ないことでした。そういう状況の中で、この人は大胆に主イエスのもとに来、救いを願います。主イエスの足元にひれ伏し、娘から悪霊を負い出して欲しいと頼みます。

  それに対して主イエスの態度は冷たいものがあります。けれども、異邦人はあきらめません。ひどい断られ方をしても、主イエスのもとを離れようとしません。この人と旧約聖書に出てくるヤコブの姿が重なってきます。ヤコブは父親をだまして祝福を奪い取って逃げて、様々なことがあって故郷に向かいます。そこで神の御使いと出会い、あきらめないで「祝福してくださるまでは離しません」と言いイスラエルと言う名前を与えられます。(創世記32章25節以下)

 今日の聖書に出てきた人も「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、こどものパン屑はいただきます」(28節)と答えています。この人は自分が主の食卓につくことができるような者ではなく、食卓の下にいる小犬のような存在であると言います。けれども小犬は食卓から落ちたパンくずを食べると言います。こぼれ落ちる恵みをください、と言います。自分が救いに値しない者であることを受入れ、恵みを求めているのです。

 私たちも主の食卓についてあたりまえの者ではありません。どんなに誇ることを持っているつもりの人でも神の目から見たら罪人の一人に過ぎません。そういう者は主の食卓に相応しくありません。主の食卓につくことが相応しくない者ゆえ、主の十字架の血によって、罪を赦していただく必要があるのです。主の十字架の血によって、清めていただいて、はじめて主の食卓につくことがゆるされるのです。

 この人は主イエスに対して主と呼びかけています。マルコにおいて主イエスに対し「主よ」と呼びかけているのはここだけです。他の人たちは「先生」と呼びかけています。自分が救いに値しない者であることを良く知っているこの人が主イエスに対して「主」と呼んでいます。

 私たちも今日の聖書に出てきた人のように主イエスの足元にひれ伏すことができるのです。礼拝の場において主イエスにひれ伏します。礼拝において、このお方を主と告白して、その救いに全てを委ねます。主イエスが十字架にかかってくださったことによって、主イエスの前にひれ伏し「主よ」と呼びかけ、大胆にパンくずを求めることができるのです。

(9月3日礼拝説教要旨)

 

「安心しなさい」マルコによる福音書6:45-56

 

主イエスは、 弟子たちを強いて舟に乗せられます。恵みの世界には、強いられた恩寵という世界があります。自分が望んでいない所へと強い力で導かれ、恵みに満たされます。主イエスと別行動が強いられ乗った舟が湖の真ん中まで来て逆風にあって漕ぎ悩んでしまいます。弟子たちは主イエスが強いて舟にのせなければ、こんな目にあわなかった。一番いてほしい時、なぜ主イエスは一緒にいてくださらないのか、そういう不満をもったと思います。主イエスは弟子たちと別行動ですが、弟子たちのことを見捨てたのではありませんでした。

 別行動された主イエスは何をされたのでしょうか。並行記事のあるヨハネによる福音書には群衆が主イエスを自分たちの王にしようとしたことがあります(6章14-15節)。弟子たちも似たような思いでした。そのような中で主イエスは、群衆を解散させて祈られます。(46節) 聖書では所々で主イエスが祈られたことが描かれています。祈る大切さが示されています。私たちにも祈りが必要なのです。何かをはじめる時、一言でも祈れます。またそれが終わった時も一言祈れます。そうやって、短い祈りを重ねつつ日々を祈りの中で過ごすことができます。また、ある程度時間をとって祈ることもできます。どうしても祈ることができない時も、主の教えてくださった「主の祈り」を祈ることができます。

 主イエスは、逆風で進めない弟子たちのところに来てくださいます。弟子たちは、舟に近づいてくださる主イエスを幽霊だと思って、おびえます。そのような弟子たちに主イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(50節後半)と言われます。主イエスは、主イエスのことを理解できない弟子たちのそばに行かれ、逆風に向かって進まれます。そしてそのご生涯の最後に十字架につかれます。私たちの人生でどんな逆風が吹いても、神はお見捨てにならないのです。あの十字架によって神から祝福をいただけるのです。

  どんなに主イエスに対する理解が不足していても、何が起きようと私たちは神から見捨てられないのです。それは救っていただける根拠は神の側で用意してくださるからです。主イエスが私たちの代わりに十字架にかかってくださいました。そのことを信じるなら、どのような人でも救いをいただけるのです。

  何が起きようと世の中がどんなに変化しようと自分の周りで何が起きようと「安心しなさい」という声を主の日の礼拝の度、また日々の祈りの中で聞くことが出きるのです。そして見える聖餐の恵みにおいてこの声が確かであること覚えることができるのです。

(8月6日礼拝説教要旨)

 

 「救いを願おう」マルコによる福音書5:21-43

 

 二人の人が癒された記事があります。この二人は全く立場の違う人たちでした。一人は社会的に認められている人の子。もう一人は社会的に認められていない人です。そういう二人の癒しを通して主イエスの救いの力があらゆる人に及ぶことが示されています。

  主イエスがゲラサ地方から帰って来られた時のことです。群衆が主イエスを喜んで迎え入れているとそこに会堂長のヤイロという人がきました。ヤイロの娘が死にかかっていました。主イエスの足元にひれ伏して、その子の命を助けて欲しいと願います。

 主イエスは、願いを聞き入れてヤイロの家に向かいます。一刻を争う緊急事態です。けれども主イエスの前に群衆が押し寄せています。ヤイロは焦ります。けれども群衆がいるのを好都合に思った人もいました。それは12年間も出血の止まらない人です。 この当時、出血の止まらないことは、神の御前に清くない存在と見なされていました。 この人は会堂長のように堂々と面と向かって主イエスに願い出ることはできなかったので、群衆の中にまぎれ込み、後ろからイエスの服の房に触れます。するとこの人の病気がなおりました。12年間も苦しんで来た苦しみから解放されます。この人は癒された後、そのまま去ることもできたはずですが、そうしませんでした。自分の願い事がかなったら、どうでも良いというのではありませんでした。病気が治ったことによって、目の前にいるお方がどういう方なのか見出すことができました。 主イエスは「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(34節)と励まし、送りだします。主イエスは救いや助けを求めて来る人のあるかないか、わからないような信仰を受けとめてくださるのです。

  会堂長の家につくと娘は死んでいました。そこにいた人たちは死の世界を見ています。 けれども主イエスはそこを越えた世界を見ておられます。娘を助けにむかっている最中に娘が死んだという知らせを聞いて、絶望的な人たちと共に主イエスは行動され、「恐れることはない。信じなさい」(36節)と言われます。死をも打ち破られる力をもっておられる方が共にいてくださることを信じなさいと言われます。そしてただ信じなさいと言われるだけではありませんでした。死んでしまったものを生き返らせてくださいます。

  弱さも欠けもある私たちが神に救いを願い、神から祝福をいただいて、礼拝の場からそれぞれの日常の場へ遣わされていきます。主イエスが私たちに代わって十字架で死んでくださいました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(34節)そのように言ってくださるのです。

(7月2日礼拝説教要旨)

 

「初代教会誕生」使徒言行録2:1-13

 

 世界中の教会でペンテコステをお祝いしています。この日に聖霊が降ったことによって、最初の教会が誕生しました。私たちが信じているのは使徒信条にもあるように「聖なる公同の教会」です。世界中のどこの教会も溯っていくなら、今日の聖書の記事までたどりつくのです。さらに溯ることがゆるされるなら旧約の時代にもさかのぼることができます。

 「五旬祭」(1節)とあります。 元々は、過ぎ越しの祭から数えて50日目にする、刈り入れの祭りの日でした。過ぎ越しというのは、災いが過ぎ越したことによって、エジプトから解放された出来事を記念して行われるようになったお祭りです。イスラエルの民がエジプトから脱出する前に10の災いがありました。その最後の災いの時に、柱と鴨居に羊の血を塗ってあった家だけ、災いが過ぎ越したことによって、エジプトから脱出することが出来たのです。災いが過ぎ越したことによってエジプトの奴隷生活からの解放され、初めての収穫物を神にささげたお祭りが五旬祭、ペンテコステです。

 この過ぎ越しに新しい意味が与えられました。主イエスが全人類のための新しい過ぎ越しの羊となって十字架で血を流してくださいました。私たちの罪に関する神の裁きが過ぎ越す。そういう過ぎ越しの羊と主イエスがなってくださいました。

 その過ぎ越しから初めてのペンテコステの日の出来事が使徒言行録の2章にあります。2章の終わりの方に、ペトロの説教を聞いて3000人が信じるようになったとあります。それは教会にとっての最初の実りといえます。刈り入れの祭りにふさわしい出来事が起きています。

 主イエスが、十字架にかかって、三日目に復活して、その後で天に昇られてしまいしたが、それで終わりではありませんでした。そうではなかったから、教会が今、存在しています。そして、教会の礼拝で主イエスと出会うことが出来るのです。

 主が約束してくださった聖霊が降ったのが、ペンテコステの出来事です。主イエスは天に昇られ、父なる神の右におられますが、聖霊が与えられているのです。聖霊において天におられる主イエスと共にいることが出来るのです。聖霊が確かに働いているから、あの2000年前のキリストの十字架が私たちの代わりの裁きの十字架であり、その恵みによって罪赦されていると信じて歩むことが出来るのです。

  確かに今も教会を通して聖霊が働いてくださいます。2000年前と同様この礼拝の場にも聖霊において主イエス・キリストがいてくださいます。この礼拝の中で聖餐の恵みにあずかりますが、パンとぶどうの杯の恵みを通して、初代の教会に働かれた聖霊が今も働いてくださっていることを見ることができるのです。

(ペンテコステ礼拝説教要旨)

 

「100倍の実を結ぼう」マルコによる福音書4:1-20

 

 同じように蒔かれた種ですが、「良い土地に蒔かれた種」とそうでない所に蒔かれた種の違いが出ます。そういう話をすると自分はここで言われている「良い土地」なのか、と心配したくなる人もいるかも知れません。このたとえ話で言いたいのはただ「良い土地」と「悪い土地」があるということではありません。どんな土地も主イエスが良い土地にしてくださるのです。そして収穫を与えてくださいます。

 14節を見ると「種をまく人は神の言葉をまく」とあります。この種は種自身が力をもっているのです。 人間の力で実を結ぶというのではなく、御言葉そのものに力があるのです。教会はその力を信じて御言葉という種を蒔き続けています。

 聖書の中に町や村を巡って旅をされている主イエスの姿があります。この主イエスの姿こそ、神の言葉という種を蒔く姿そのものです。 徴税人にも罪深い人にもファリサイ派にも律法学者にもどんな人にも罪の赦しの救いを与えようとして神の言葉を伝えました。そうやって主イエスは神の言葉という種をまき続けられました。けれども、残念ながら全部が全部収穫につながったのではありません。

 今日の聖書の箇所のたとえ話は、4種類の人間がいるという話ではありません。良い土地と他の地の違いは、手入れされているかどうかにあるのです。畑の横の道端という土地でも、手を入れれば良い土地にかわります。神の鍬で耕していただくならば、どんな土地も良い土地になるのです。石だらけの所であろうと茨であろうとそういう障害をどければ、良い土地になります。 たとえ今、道端や石だらけの所や茨の中のような心であっても実を結ぶことができるのです。旧約の民や主の弟子たちもそうであったように私たちも良い土地に変えていただけるのです。

  聖書を通して、御言葉の種が蒔き続けられているからです。今も、礼拝で神の言葉を与えてくださるのです。御言葉を奪い取ろうとするサタンに主イエスが勝利されています。主イエスが根を育ててくださいます。石地をつきやぶって根を出すこともあります。試練の中でも主が共にいてくださいます。主イエスの十字架の血によってどのような土地も「良い土地に」かえていただけるのです。

 十字架の血によって豊作が期待できる良い土地にしてくださるのです。その十字架の血を聖餐の恵みによって覚えることがゆるされています。確かに十字架の血が自分にも働いていることを覚えることができるのです。

(5月14日礼拝説教要旨)

 

「身体の復活」マルコによる福音書16:1-8

 

 聖書が語る主イエスの復活は、弟子たちの心に主イエスの思い出が残り続けたとか、魂だけが戻ってきたというようなものとは違います。 身体をもった復活があるのです。そのことを信仰の先人たちも信じました。       安息日が終わって、そして夜が明けるのを待ちかねたように、女性たちは主イエスのお墓に行きました。お墓の中に入って行くと天の使いが言います。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(6節)お墓の中に主イエスを見つけようとします。それは主イエスを、もう死んで過ぎ去った過去の思い出の中の存在としてしまうことです。主イエスをそういう人として見つめていることになります。私たちが主イエスを見つける場所はお墓ではありません。そこには主イエスはおられないのです。

 主イエスは復活して、生きておられます。お墓に入って、死んでしまった主イエスを相手にしている限り、生きた交わりはありません。生きた交わりがないということは、自分が変わる必要がないということです。けれども復活された主イエスとの生きた交わりは違います。そこで私たちは、生きている方と出会い、その出会いによって変えられるのです。そういう出会いがこの礼拝にもあるのです。

 天の使いは、弟子たちに伝えるべき言葉を託します。弟子たちは主イエスの十字架の時にみな逃げ去ってしまった弟子たちです。けれども、ここで天の使いはその「弟子たちに」と言います。その背後には、罪の赦しの宣言があります。

  復活された主イエスは、弟子たちより先にガリラヤへ行かれます。ガリラヤは、弟子たちの故郷です。弟子たちの信仰の原点です。そこで、彼らを主イエスの弟子として、信仰者としてもう一度最初から立て直して下さるのです。そのガリラヤへ、復活の主イエスが彼らより先に行っておられます。そこで弟子たちを裁かれるのではなく、迎えて下さいます。

復活の主イエスによって彼らは再び、弟子として、信仰者として立てられるのです。それはもはや自分の力や信仰心によってではありません。私たちの弱さや罪の全てを背負って十字架にかかって死んで下さった主イエスによって、そして主イエスを復活させて下さった父なる神の恵みによって立つことができるのです。私たちにとってのガリラヤは、教会の礼拝の場です。キリスト者失格のような私たちを復活の主イエスが礼拝の場において先にいて待っていてくださるのです。

 (イースター礼拝説教要旨)

 

「主の祝福を」マルコによる福音書2:23-28

 

 「安息日」に弟子たちが麦の穂を摘んだことが、ファリサイ派の人から問題にされます。ファリサイ派の人たちは行いによって救いを得ようとまじめに律法を守ろうとしました。実際に神の目から見て守りきれているかという問題はありますが、まじめに律法を守って救いを得ようとしていました。

  安息日のことが十戒の第4戒(出エジプト記20章8節以下)にあります。これだけ読むと仕事を休むということに関心がいってしまうかも知れません。けれども、人間が業をやめると言うことが中心にあるのです。神様がすべてを創られたことを覚えるため、人間が日々の業を中断するという意味があるのです。神を礼拝する安息日、神から祝福をいただく安息日のはずだったのが、いつのまにか律法を守る日、人を裁き、自分も裁かれる日になってしまいます。そこには真の安息はありません。

 十戒は申命記5章でも伝えられています。微妙に違っています。そこでは安息日の根拠は天地創造だけではなく、エジプトでの奴隷からの解放が言われています。旧約の民は、エジプトで奴隷だった時は、安息日を守れない状況でしたが、主がそこから救い出され安息を与えてくださいました。そのことを覚え、主によって与えられた救いと安息に与るために安息日が定められています。

  私たちは自分からなかなか休むことが出来ません。それは休みがとれるかとれないかという問題でなく、本当の意味での魂の安息は難しいのです。私たちは、仕事のこと家のこと…様々なこと、罪の問題を抱えています。そういう世界にどっぷりと浸かっています。神がそういうところから救い出してくださることがなければ、真の安息はありません。様々な業を中断して休んで、神による解放、救いの恵みを覚える時を持つことによって、人間の力では得ることのできない真の魂の安息を得ることが出来るのです。

 神を礼拝するのは、私たちが役に立つ者となるためではありません。神が安息日の主によって与えてくださる救いに与り、真の安息に与るためなのです。私たちの自己満足や誇りを満たす業による安息とは違います。そういう世界から解放してくださいます。神の目から見たら役に立つどころか、足を引っ張る存在の私たち罪人のため安息日の主イエスが十字架にかかって救いを与えてくださいます。そこに真の安息の世界があるのです。どんな人も能力で評価されなくても良い。人間の業を中断し、ただただ神の十字架の救いの御業を受入れ、祝福をいただく、そのような安息が、礼拝の場において与えられているのです。

(3月19日礼拝説教要)