「味方」マルコによる福音書9:38-41

 

  私たちは敵をつくりたがる傾向があります。敵、味方に分ける世界は、自分の居場所をつくりやすいかも知れません。けれども、それが普遍的な本当の居場所かは疑問です。敵を間違ってはいけないのです。私たちにとって本当に恐ろしい敵は、キリストの十字架の贖いの恵みから引き離そうとするものです。

 主イエスの名を使って悪霊を追いだしている人がいたと手柄を立てようとしてヨハネが主イエスに報告していることが38節にあります。ヨハネの言葉をよく見てみると主イエスに従わないというのではなく「わたしたちに従わない」(38節)ことが問題にされています。

 主イエスは、そんなヨハネの思いを打ち砕かれます。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方である」(40節)と言われます。主イエスにお仕えしながら、人と比較します。弟子たちの間で比べ、その他の人とも比べます。あの人と自分は違います。そうやって敵をつくり出して行きます。そういう思いが問題なのです。人と比べなくて良いのです。敵も味方もありません。 

 明らかに神に逆らわない限り、味方として理解して良いと主イエスは言われます。「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(41節)私たちがキリスト者であることを知って水を飲ませてくれるなら,その人も味方だと言われます。私たちが信仰を持つこと、私たちが教会に行くことを悪く言わない人、少なくとも反対しない人、受入れてくれる人は味方だと主イエスは言われます。

  主の十字架を仰いで自分と言う罪人も赦されている恵みの世界から隣人を見て行く世界があるのです。神と向き合って、自分の罪の問題を見つめます。自分自身が神の敵であったことを覚えます。その敵であった私たちの味方となってくださる方がいるのです。

  主イエスが十字架にかかってくださり、私たちの罪を赦してくださるのです。主イエスの十字架の前で人のことを裁けなくなります。そして、あの人もこの人も敵ではない世界が見えてきます。そこに見えてくるのは敵ではなく、味方です。違いを裁きあって敵をつくるのではない世界が示されています。裁きあって敵をつくって、自分の居場所を確保するのではない世界が待っています。過ちを許し合い、共に十字架の主イエスをあがめていく世界が広がっているのです。

(11月19日礼拝説教要旨)

「信仰を言い表そう」マルコによる福音書8:27-30

 

  主イエスはエルサレムに向かう遠回りの道の途中で「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問われます。 当時の人は、28節にあるように「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の一人」と答えがあります。主イエスを優れた人間の一人として考えていました。

 主イエスは世間の人々の思いを聞かれた後で、弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(29節)と問われます。 

  この問いは「あなたがた」に向けられたものです。そしてそれは今の私たち一人一人にも向けられているのです。その問いにペトロが代表して答えてくれます。「あなたは、メシアです」(29b)メシア=救い主です。ただの先生とも預言者とも違います。罪によって失われてしまった神の祝福を回復し、神の民をあらたに集め、歩み出させて下さる方と言う信仰を言い表しています。その告白は、世の人が主イエスのことを預言者や教師として敬う思いを持つのとは違っています。世の人たちにとって、主イエスは、あくまでもナザレの一人の人間に過ぎません。自分たちが教えを聞いて、それを実行していくことによって、救いを得ようとします。自分たちが暮らしやすい国を求めます。そこには人間の罪の問題は入っていません。

 それに対し、ペトロは主イエスこそ、救いを実現し、与えてくださる方とその信仰を言い表しています。人間は自分たちの力で罪からの救いを得ることは出来ません。主イエスの力によってのみ救いを与えていただけるという信仰を言い表しているのです。この信仰告白こそ、教会の信仰の土台です。いつの時代も教会は、この土台の上にたっています。キリスト教はイエス様こそが、罪からの救い主であると信じているのです。

  ナザレの一人の人間の教えを人生教訓として聞いて、それにならって生きようとするのとは違います。人格者になることが救いではありません。罪人である私たちですが、救いを一方的に与えていただけるのです。私たちが良い人になったから、救いが与えられるのではありません。神の目から見て罪の問題を抱えている私たち一人ひとりですが、そういう私たちの代わりに主イエスが十字架にかかってくださったことによって、救いを与えていただけるのです。

  ペトロは不完全な信仰しかもっていません。主イエスが十字架にかかられることになる前に捕えられたとき、主イエスとの関係を否定し、「知らない」と3度も言ってしまいます。そういうペトロですが、「あなたはメシアです」と信仰を言い表し、信仰を全うし、ローマの皇帝ではなく、主イエスを拝みました。

  主イエスは私たちにも問われます。「わたしを何者だと言うのか」

(10月1日礼拝説教要旨)

 

 

 「恵みを求めて」マルコによる福音書7:24-30

 

  ティルスにおられる主イエスのもとに一人の異邦人が訪ねてきます。異邦人の町にも主イエスを求めている人はいます。けれども、この当時、異邦人がユダヤの人に願い事をすることは、あり得ないことでした。そういう状況の中で、この人は大胆に主イエスのもとに来、救いを願います。主イエスの足元にひれ伏し、娘から悪霊を負い出して欲しいと頼みます。

  それに対して主イエスの態度は冷たいものがあります。けれども、異邦人はあきらめません。ひどい断られ方をしても、主イエスのもとを離れようとしません。この人と旧約聖書に出てくるヤコブの姿が重なってきます。ヤコブは父親をだまして祝福を奪い取って逃げて、様々なことがあって故郷に向かいます。そこで神の御使いと出会い、あきらめないで「祝福してくださるまでは離しません」と言いイスラエルと言う名前を与えられます。(創世記32章25節以下)

 今日の聖書に出てきた人も「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、こどものパン屑はいただきます」(28節)と答えています。この人は自分が主の食卓につくことができるような者ではなく、食卓の下にいる小犬のような存在であると言います。けれども小犬は食卓から落ちたパンくずを食べると言います。こぼれ落ちる恵みをください、と言います。自分が救いに値しない者であることを受入れ、恵みを求めているのです。

 私たちも主の食卓についてあたりまえの者ではありません。どんなに誇ることを持っているつもりの人でも神の目から見たら罪人の一人に過ぎません。そういう者は主の食卓に相応しくありません。主の食卓につくことが相応しくない者ゆえ、主の十字架の血によって、罪を赦していただく必要があるのです。主の十字架の血によって、清めていただいて、はじめて主の食卓につくことがゆるされるのです。

 この人は主イエスに対して主と呼びかけています。マルコにおいて主イエスに対し「主よ」と呼びかけているのはここだけです。他の人たちは「先生」と呼びかけています。自分が救いに値しない者であることを良く知っているこの人が主イエスに対して「主」と呼んでいます。

 私たちも今日の聖書に出てきた人のように主イエスの足元にひれ伏すことができるのです。礼拝の場において主イエスにひれ伏します。礼拝において、このお方を主と告白して、その救いに全てを委ねます。主イエスが十字架にかかってくださったことによって、主イエスの前にひれ伏し「主よ」と呼びかけ、大胆にパンくずを求めることができるのです。

(9月3日礼拝説教要旨)

「安心しなさい」マルコによる福音書6:45-56

 

主イエスは、 弟子たちを強いて舟に乗せられます。恵みの世界には、強いられた恩寵という世界があります。自分が望んでいない所へと強い力で導かれ、恵みに満たされます。主イエスと別行動が強いられ乗った舟が湖の真ん中まで来て逆風にあって漕ぎ悩んでしまいます。弟子たちは主イエスが強いて舟にのせなければ、こんな目にあわなかった。一番いてほしい時、なぜ主イエスは一緒にいてくださらないのか、そういう不満をもったと思います。主イエスは弟子たちと別行動ですが、弟子たちのことを見捨てたのではありませんでした。

 別行動された主イエスは何をされたのでしょうか。並行記事のあるヨハネによる福音書には群衆が主イエスを自分たちの王にしようとしたことがあります(6章14-15節)。弟子たちも似たような思いでした。そのような中で主イエスは、群衆を解散させて祈られます。(46節) 聖書では所々で主イエスが祈られたことが描かれています。祈る大切さが示されています。私たちにも祈りが必要なのです。何かをはじめる時、一言でも祈れます。またそれが終わった時も一言祈れます。そうやって、短い祈りを重ねつつ日々を祈りの中で過ごすことができます。また、ある程度時間をとって祈ることもできます。どうしても祈ることができない時も、主の教えてくださった「主の祈り」を祈ることができます。

 主イエスは、逆風で進めない弟子たちのところに来てくださいます。弟子たちは、舟に近づいてくださる主イエスを幽霊だと思って、おびえます。そのような弟子たちに主イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(50節後半)と言われます。主イエスは、主イエスのことを理解できない弟子たちのそばに行かれ、逆風に向かって進まれます。そしてそのご生涯の最後に十字架につかれます。私たちの人生でどんな逆風が吹いても、神はお見捨てにならないのです。あの十字架によって神から祝福をいただけるのです。

  どんなに主イエスに対する理解が不足していても、何が起きようと私たちは神から見捨てられないのです。それは救っていただける根拠は神の側で用意してくださるからです。主イエスが私たちの代わりに十字架にかかってくださいました。そのことを信じるなら、どのような人でも救いをいただけるのです。

  何が起きようと世の中がどんなに変化しようと自分の周りで何が起きようと「安心しなさい」という声を主の日の礼拝の度、また日々の祈りの中で聞くことが出きるのです。そして見える聖餐の恵みにおいてこの声が確かであること覚えることができるのです。

(8月6日礼拝説教要旨)

 「救いを願おう」マルコによる福音書5:21-43

 

 二人の人が癒された記事があります。この二人は全く立場の違う人たちでした。一人は社会的に認められている人の子。もう一人は社会的に認められていない人です。そういう二人の癒しを通して主イエスの救いの力があらゆる人に及ぶことが示されています。

  主イエスがゲラサ地方から帰って来られた時のことです。群衆が主イエスを喜んで迎え入れているとそこに会堂長のヤイロという人がきました。ヤイロの娘が死にかかっていました。主イエスの足元にひれ伏して、その子の命を助けて欲しいと願います。

 主イエスは、願いを聞き入れてヤイロの家に向かいます。一刻を争う緊急事態です。けれども主イエスの前に群衆が押し寄せています。ヤイロは焦ります。けれども群衆がいるのを好都合に思った人もいました。それは12年間も出血の止まらない人です。 この当時、出血の止まらないことは、神の御前に清くない存在と見なされていました。 この人は会堂長のように堂々と面と向かって主イエスに願い出ることはできなかったので、群衆の中にまぎれ込み、後ろからイエスの服の房に触れます。するとこの人の病気がなおりました。12年間も苦しんで来た苦しみから解放されます。この人は癒された後、そのまま去ることもできたはずですが、そうしませんでした。自分の願い事がかなったら、どうでも良いというのではありませんでした。病気が治ったことによって、目の前にいるお方がどういう方なのか見出すことができました。 主イエスは「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(34節)と励まし、送りだします。主イエスは救いや助けを求めて来る人のあるかないか、わからないような信仰を受けとめてくださるのです。

  会堂長の家につくと娘は死んでいました。そこにいた人たちは死の世界を見ています。 けれども主イエスはそこを越えた世界を見ておられます。娘を助けにむかっている最中に娘が死んだという知らせを聞いて、絶望的な人たちと共に主イエスは行動され、「恐れることはない。信じなさい」(36節)と言われます。死をも打ち破られる力をもっておられる方が共にいてくださることを信じなさいと言われます。そしてただ信じなさいと言われるだけではありませんでした。死んでしまったものを生き返らせてくださいます。

  弱さも欠けもある私たちが神に救いを願い、神から祝福をいただいて、礼拝の場からそれぞれの日常の場へ遣わされていきます。主イエスが私たちに代わって十字架で死んでくださいました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(34節)そのように言ってくださるのです。

(7月2日礼拝説教要旨)

「初代教会誕生」使徒言行録2:1-13

 

 世界中の教会でペンテコステをお祝いしています。この日に聖霊が降ったことによって、最初の教会が誕生しました。私たちが信じているのは使徒信条にもあるように「聖なる公同の教会」です。世界中のどこの教会も溯っていくなら、今日の聖書の記事までたどりつくのです。さらに溯ることがゆるされるなら旧約の時代にもさかのぼることができます。

 「五旬祭」(1節)とあります。 元々は、過ぎ越しの祭から数えて50日目にする、刈り入れの祭りの日でした。過ぎ越しというのは、災いが過ぎ越したことによって、エジプトから解放された出来事を記念して行われるようになったお祭りです。イスラエルの民がエジプトから脱出する前に10の災いがありました。その最後の災いの時に、柱と鴨居に羊の血を塗ってあった家だけ、災いが過ぎ越したことによって、エジプトから脱出することが出来たのです。災いが過ぎ越したことによってエジプトの奴隷生活からの解放され、初めての収穫物を神にささげたお祭りが五旬祭、ペンテコステです。

 この過ぎ越しに新しい意味が与えられました。主イエスが全人類のための新しい過ぎ越しの羊となって十字架で血を流してくださいました。私たちの罪に関する神の裁きが過ぎ越す。そういう過ぎ越しの羊と主イエスがなってくださいました。

 その過ぎ越しから初めてのペンテコステの日の出来事が使徒言行録の2章にあります。2章の終わりの方に、ペトロの説教を聞いて3000人が信じるようになったとあります。それは教会にとっての最初の実りといえます。刈り入れの祭りにふさわしい出来事が起きています。

 主イエスが、十字架にかかって、三日目に復活して、その後で天に昇られてしまいしたが、それで終わりではありませんでした。そうではなかったから、教会が今、存在しています。そして、教会の礼拝で主イエスと出会うことが出来るのです。

 主が約束してくださった聖霊が降ったのが、ペンテコステの出来事です。主イエスは天に昇られ、父なる神の右におられますが、聖霊が与えられているのです。聖霊において天におられる主イエスと共にいることが出来るのです。聖霊が確かに働いているから、あの2000年前のキリストの十字架が私たちの代わりの裁きの十字架であり、その恵みによって罪赦されていると信じて歩むことが出来るのです。

  確かに今も教会を通して聖霊が働いてくださいます。2000年前と同様この礼拝の場にも聖霊において主イエス・キリストがいてくださいます。この礼拝の中で聖餐の恵みにあずかりますが、パンとぶどうの杯の恵みを通して、初代の教会に働かれた聖霊が今も働いてくださっていることを見ることができるのです。

(ペンテコステ礼拝説教要旨)

「100倍の実を結ぼう」マルコによる福音書4:1-20

 

 同じように蒔かれた種ですが、「良い土地に蒔かれた種」とそうでない所に蒔かれた種の違いが出ます。そういう話をすると自分はここで言われている「良い土地」なのか、と心配したくなる人もいるかも知れません。このたとえ話で言いたいのはただ「良い土地」と「悪い土地」があるということではありません。どんな土地も主イエスが良い土地にしてくださるのです。そして収穫を与えてくださいます。

 14節を見ると「種をまく人は神の言葉をまく」とあります。この種は種自身が力をもっているのです。 人間の力で実を結ぶというのではなく、御言葉そのものに力があるのです。教会はその力を信じて御言葉という種を蒔き続けています。

 聖書の中に町や村を巡って旅をされている主イエスの姿があります。この主イエスの姿こそ、神の言葉という種を蒔く姿そのものです。 徴税人にも罪深い人にもファリサイ派にも律法学者にもどんな人にも罪の赦しの救いを与えようとして神の言葉を伝えました。そうやって主イエスは神の言葉という種をまき続けられました。けれども、残念ながら全部が全部収穫につながったのではありません。

 今日の聖書の箇所のたとえ話は、4種類の人間がいるという話ではありません。良い土地と他の地の違いは、手入れされているかどうかにあるのです。畑の横の道端という土地でも、手を入れれば良い土地にかわります。神の鍬で耕していただくならば、どんな土地も良い土地になるのです。石だらけの所であろうと茨であろうとそういう障害をどければ、良い土地になります。 たとえ今、道端や石だらけの所や茨の中のような心であっても実を結ぶことができるのです。旧約の民や主の弟子たちもそうであったように私たちも良い土地に変えていただけるのです。

  聖書を通して、御言葉の種が蒔き続けられているからです。今も、礼拝で神の言葉を与えてくださるのです。御言葉を奪い取ろうとするサタンに主イエスが勝利されています。主イエスが根を育ててくださいます。石地をつきやぶって根を出すこともあります。試練の中でも主が共にいてくださいます。主イエスの十字架の血によってどのような土地も「良い土地に」かえていただけるのです。

 十字架の血によって豊作が期待できる良い土地にしてくださるのです。その十字架の血を聖餐の恵みによって覚えることがゆるされています。確かに十字架の血が自分にも働いていることを覚えることができるのです。

(5月14日礼拝説教要旨)

「身体の復活」マルコによる福音書16:1-8

 

 聖書が語る主イエスの復活は、弟子たちの心に主イエスの思い出が残り続けたとか、魂だけが戻ってきたというようなものとは違います。 身体をもった復活があるのです。そのことを信仰の先人たちも信じました。       安息日が終わって、そして夜が明けるのを待ちかねたように、女性たちは主イエスのお墓に行きました。お墓の中に入って行くと天の使いが言います。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(6節)お墓の中に主イエスを見つけようとします。それは主イエスを、もう死んで過ぎ去った過去の思い出の中の存在としてしまうことです。主イエスをそういう人として見つめていることになります。私たちが主イエスを見つける場所はお墓ではありません。そこには主イエスはおられないのです。

 主イエスは復活して、生きておられます。お墓に入って、死んでしまった主イエスを相手にしている限り、生きた交わりはありません。生きた交わりがないということは、自分が変わる必要がないということです。けれども復活された主イエスとの生きた交わりは違います。そこで私たちは、生きている方と出会い、その出会いによって変えられるのです。そういう出会いがこの礼拝にもあるのです。

 天の使いは、弟子たちに伝えるべき言葉を託します。弟子たちは主イエスの十字架の時にみな逃げ去ってしまった弟子たちです。けれども、ここで天の使いはその「弟子たちに」と言います。その背後には、罪の赦しの宣言があります。

  復活された主イエスは、弟子たちより先にガリラヤへ行かれます。ガリラヤは、弟子たちの故郷です。弟子たちの信仰の原点です。そこで、彼らを主イエスの弟子として、信仰者としてもう一度最初から立て直して下さるのです。そのガリラヤへ、復活の主イエスが彼らより先に行っておられます。そこで弟子たちを裁かれるのではなく、迎えて下さいます。

復活の主イエスによって彼らは再び、弟子として、信仰者として立てられるのです。それはもはや自分の力や信仰心によってではありません。私たちの弱さや罪の全てを背負って十字架にかかって死んで下さった主イエスによって、そして主イエスを復活させて下さった父なる神の恵みによって立つことができるのです。私たちにとってのガリラヤは、教会の礼拝の場です。キリスト者失格のような私たちを復活の主イエスが礼拝の場において先にいて待っていてくださるのです。

 (イースター礼拝説教要旨)

「主の祝福を」マルコによる福音書2:23-28

 

 「安息日」に弟子たちが麦の穂を摘んだことが、ファリサイ派の人から問題にされます。ファリサイ派の人たちは行いによって救いを得ようとまじめに律法を守ろうとしました。実際に神の目から見て守りきれているかという問題はありますが、まじめに律法を守って救いを得ようとしていました。

  安息日のことが十戒の第4戒(出エジプト記20章8節以下)にあります。これだけ読むと仕事を休むということに関心がいってしまうかも知れません。けれども、人間が業をやめると言うことが中心にあるのです。神様がすべてを創られたことを覚えるため、人間が日々の業を中断するという意味があるのです。神を礼拝する安息日、神から祝福をいただく安息日のはずだったのが、いつのまにか律法を守る日、人を裁き、自分も裁かれる日になってしまいます。そこには真の安息はありません。

 十戒は申命記5章でも伝えられています。微妙に違っています。そこでは安息日の根拠は天地創造だけではなく、エジプトでの奴隷からの解放が言われています。旧約の民は、エジプトで奴隷だった時は、安息日を守れない状況でしたが、主がそこから救い出され安息を与えてくださいました。そのことを覚え、主によって与えられた救いと安息に与るために安息日が定められています。

  私たちは自分からなかなか休むことが出来ません。それは休みがとれるかとれないかという問題でなく、本当の意味での魂の安息は難しいのです。私たちは、仕事のこと家のこと…様々なこと、罪の問題を抱えています。そういう世界にどっぷりと浸かっています。神がそういうところから救い出してくださることがなければ、真の安息はありません。様々な業を中断して休んで、神による解放、救いの恵みを覚える時を持つことによって、人間の力では得ることのできない真の魂の安息を得ることが出来るのです。

 神を礼拝するのは、私たちが役に立つ者となるためではありません。神が安息日の主によって与えてくださる救いに与り、真の安息に与るためなのです。私たちの自己満足や誇りを満たす業による安息とは違います。そういう世界から解放してくださいます。神の目から見たら役に立つどころか、足を引っ張る存在の私たち罪人のため安息日の主イエスが十字架にかかって救いを与えてくださいます。そこに真の安息の世界があるのです。どんな人も能力で評価されなくても良い。人間の業を中断し、ただただ神の十字架の救いの御業を受入れ、祝福をいただく、そのような安息が、礼拝の場において与えられているのです。

(3月19日礼拝説教要)

「新しい教え」マルコによる福音書1:21-28

 

 会堂で、主イエスは教えはじめられました。 それを聞いた「人々はその教えに非常に驚いた」(22節)とあります。律法学者の語る「これをしてはいけません」「あれをしなければいけません」そういう律法を守れた人だけ救われるという言葉とは違っていたからです。どんな人も救っていただける本当の救いが語られていたからです。この驚きは、ただの倫理的、道徳的な教えを聞いても起こりません。倫理的、道徳的な話はすでにいやというほど聞いています。それまで知らなかった世界に触れたからこそ人々は驚いたのです。

 「時は満ち、神の国は近づいた」それはこの世の常識や理屈を越えている世界です。 神と向き合い、福音を信じて神の救いの恵みに与ることが言われます。

 主イエスが権威あるものとして語られた所で一人の男が叫び出します。汚れた霊は誰よりも神のことを知っています。けれども神と交わることはできません。

 汚れた霊につかれていた人は、主イエスと出会うまで礼拝していても他の人たちと一緒に礼拝できました。けれども主イエスがこられ、いきなり暴れ出しました。「悔い改めて福音を信じよ」そう言われて、かまわないでくれと言います。それは他人事ではありません。主イエスにかまわないでほしい。当時、病気は悪霊によるものと考えられていたが、そういうのと関係なしに私たちも信仰的には健康でありません。 あらゆる人が罪の問題を持っています。神の目から見て罪の問題をもった私たちが、方向転換し、神と向き合って救いの恵みをいただけば良いのです。けれども方向転換しなくても、今のまま自分の力でなんとかやっていける。だからかまわないで欲しいと思います。主イエスは「黙れ、この人から出て行け」と言われます。汚れた霊につかれていた人を滅ぼすのでなく、汚れた霊を追い出されるのです。

 「時は満ち、神の国は近づいた」という宣言は、神が悪霊の力を打ち破ってくださり、神のご支配がはじまっていると言う意味です。汚れた霊の支配は終わる。だから「悔い改めて福音を信じなさい」と言われています。主イエスの権威は十字架の死において、そして復活において表されています。その主イエスが力ある言葉を今も礼拝において一人ひとりに語りかけてくださるのです神のご支配による救いが実現しようとしているから方向を変えて、神の方に全身で向き直って、救いの恵みをいただけば良いのです。私たちの救いに必要な全ては主イエスが十字架にかかってくださり、復活してくださり整えられています。

(2月5日礼拝説教要旨)

「私たちは神の作品」エフェソの信徒への手紙2:1-10

 

 「わたしたちは神に造られたもの」(10節)口語訳聖書では「わたしたちは神の作品」と訳されていました。私たちは偶然に生まれた無意味な存在ではなく、一人ひとりが神の作品だと聖書は語ります。私たちが神の作品ということは、神が私たち一人ひとりの存在を望んでくださっているということです。神が前もって準備してくださっている善い業のために私たち一人ひとりが創られたのです。性別、年齢、体力、能力の差を越えて神が私たちの存在に目的をもっておられます。私たちが、神が前もって準備された善い業を行って歩むことが出来るのです。それはキリスト・イエスにおいて創られたからです。

 「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(1節)とあります。ここで語られているのは肉体の死のことではありません。「死んでいた」というのは神との交わりをなくしてしまっていたという意味です(ルカ15章参照)。 

 神から離れ、神の作品としての姿をなくしてしまった私たちを愛してくださり、再び生かしてくださいます。神と私たちの交わりの回復のためにイエス・キリストが十字架にかかってくださいました。十字架の恵みによって、神の作品として創りなおしていただけるのです。 

一般的に人は、自分の行いを人から評価されるときに、充実感や自尊心を感じます。けれども、人と比べて劣ってることに目がいく傾向があります。私たちの存在の意味は行いを越えたところにあるのです。私たちは存在しているだけで価値があるのです。神が創られたゆえに私たちに価値があるのです。ブランド品は、素人には価値がわからないこともあります。けれども、それがブランドものであると知ったら急に価値あるものになってしまうことがあります。私たちはそういうブランド品に勝った存在なのです。神が独り子を十字架にかけてくださって、再び生かしてくださるほど大切な作品なのです。「主イエスの焼き印を身に受けている」(ガラテヤの信徒への手紙6章17節)主イエスの焼き印を身に受けているというのは、私たちが神の作品として品質が保証されていることです。

 誰が何と言おうが、価値ある者としてキリストが生かしてくださるのです。人と比べなくても良いのです。一人ひとりが人と同じではない特別な個性の持ち主です。神の眼からみて私たちにもそれぞれに存在の目的があるのです。自分が神の作品であることを知って、自分を受け容れられたら、今度は全てが神の作品であることへと目が向けられて行くのです。

(2017年元旦礼拝説教要旨)

「救い主と出会う旅」ルカによる福音書2:1-5

 

 聖書のクリスマスの出来事を読むと旅が必要だったことを覚えます。マリアとヨセフ、羊飼いたち、そして占星術の学者たちもそれぞれの旅をしています。マリアとヨセフは住民登録のための旅に出なければなりませんでした。目的地はベツレヘムでした。 長い距離の旅です。自分たちの町を支配しているローマに税金を払うための住民登録の旅です。できれば避けたい旅です。身ごもっているマリアにとっても、共にいるヨセフにとってもこの旅は、厳しいものがありました。けれどもそこで赤子の救い主と出会うことになります。

その赤子こそが救い主。ここがつまずきを与えるところです。けれども私たちの思いを満たすような救い主なら、信じられるでしょうか?聖書の記事は、徹頭徹尾、人間の思いと神の思いがいかに違うかが示されています。神のなさることは、人間の知恵で理解しようと思うと無理があるのです。

信仰の父祖と呼ばれるアブラハムは、約束の地を目指して旅立ちました。そしてその先々で、神と出会う経験をしていくのです。旧約の民がエジプトを脱出して約束の地にたどりつく旅もそうです。この旅は順調に進んだら40日もあればつくはずの旅です。それが40年もの旅をしています。この旅によって神が共にいてくださる経験を積んでいくことになるのです。

 私たちの人生も旅にたとえられることがあります。目的地はどこでしょう? キリスト者の目的地は天の神の元にあります。その旅の途中で思ってもいなかったような所で救い主とお会いします。その繰り返しです。人生の苦難や悲しみ、厳しい所で主イエスと出会います。そしてそこにおいて自分が考えていたような御利益的な形で問題が解決するという形ではない救いがあることに気づかされます。

 今日のベツレヘムの馬小屋は教会の礼拝と行っても良いのです。礼拝に出たから、自分が抱えていた問題が解決するわけではありません。けれども、礼拝の場において確かに救い主がおられることを覚えます。そして礼拝から遣わされた日々も主イエスが出会ってくださる経験をもちます。私たちの救いを完成してくださるために主イエス・キリストがクリスマスに来てくださったのです。私たちの旅は、もはや一人ではありません。主イエス・キリストが共にいてくださり、救いを完成してくださる旅なのです。

  (12月18日礼拝説教要旨)