「あなたも招かれている」ルカによる福音書2:8-20

 

クリスマスというとロマンチックなものを想像する人もいると思いますが、最初のクリスマスは2章6節にあるように馬小屋の飼い葉桶の周りの出来事だったのです。マリアとヨセフ、羊飼いたち、そしてマタイによる福音書では占星術の学者たちが礼拝していたことがあります。馬小屋の飼い葉桶の周りに宿屋の人もいたかも知れません。大勢の人が集められています。色々な人が集められています。普通では一緒になることが少ないような不思議な組み合わせによって、最初のクリスマスがありました。そして二千十数年の時がたって、馬小屋ではなく教会で、キリストを礼拝するために世界中の人たちが集められています。ここにも色々な人が集められています。

 ルカによる福音書では羊飼いのことが書かれていました。この当時、羊飼いというのは、救いから遠いと理解されていた人たちです。そういう人たちが最初のクリスマスに馬小屋に集められています。飼い葉桶に救い主が寝ています。それは私たち人間が、神の御前に低くならないと見えない恵みです。神の御子が低きに降ってくださいました。その恵みは、人間が神を仰がないと見えない恵みです。私たち人間が神の御前に小さくなって、主を大きくして賛美します。神の憐れみを受けるものが小さいもの、弱いもの、しいたげられているものとして語られることが多い理由はここにあります。傲慢なもの、権力のあるものも救い主の前には低くされます。

 人間が小さくなったマリアとヨセフ、羊飼いたちと占星術の学者たちが最初のクリスマスに集められています。主イエスが中心にいなかったら考えられない組み合わせです。赤ちゃんだった主イエスが育ってからも、主イエスの周りには、普通ではありえない組み合わせの人たちがいました。弟子たちの中にも、主義や主張の全く違う者たちがいました。そういう者たちが、一つとされています。二千十数年の教会の歴史の中でも、一つとなり得ない人たちが主イエスを中心にして一つとされています。

 本当の救い主を拝む時、人間は何ものをもおそれないで良いものとされています。人のことも恐れる必要はないのです。神に対する自分の罪の問題も恐れる必要はありません。主イエスを礼拝する時、何も恐れなくても良いのです。そのような真の平安を与えてくださるため、主イエスが私たちを集めてくださっています。今、私たちがここに集められています。そして今後も不思議な組み合わせでこの群れに加えられていく者たちが起こされていくのです。

 

 (クリスマス礼拝説教要旨)

「神の祝福」 マルコによる福音書10:13-16

 

 優れている力にあやかりたいという思いを持って親たちは、主イエスにこどもを近づけます。そのような人たちに対して叱った弟子に主イエスは「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(14節後半―15節)と言われます。こどもは素直、従順、純粋という面もありますが、それだけではありません。大人であれば決して許されないような言動をします。こどもの世界にもいじめは存在します。こどもも大人と変わらない醜い心ももっています。

 ここで言われているこどものようにというのは、年齢の問題だけではありません。こどもは無力な存在の代表です。当時は、こどもの人権という言葉すらありません。人数にも数えてもらっていません。 神との関係において誇れるものを持っていない人たちこそが、神の国を受入れるのです。自分たちは神に対して誇れるものを十分に持っているつもりのファリサイ派の人たちの考えとは大きく違います。彼らは、何もできない者は神の国に相応しくないと考えていました。弟子たちも誰が一番偉いのかというほど、いろいろ誇るものを持っているつもりでした。

 けれどもこどもたちは、全く違っています。誇れるものが全くありません。そして更にこのこどもたちは、主イエスのもとにも、自分の力で来たのではありませんでした。「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」(16節)こどもを連れてきた人は、主イエスに触れていただくことを願っていただけです。けれども主イエスはそのこどもたちを抱き上げ、手を置いて祝福してくださいます。それは私たちに対する救いと同じです。主イエスが抱き上げて救ってくださるのです。自分の力で救いを得られない私たちです。そういう私たちを抱き上げ救ってくださいます。祝福してくださいます。

 私たちの側に誇れるものがあるから主イエスが祝福してくださるのではありません。神の御前に誇れるものを何も持たない私たちに主イエスは救いのみ業を行なってくださるのです。私たちは自分の罪に対して何もできない者です。ただ十字架の恵みをいただくしかない者です。こどものように神の国を受入れるとは、自らの罪に対して無力な弱い存在として、神の御前に立つということです。そのような者のために主イエスの十字架があるのです。自らの力では何も出来ないことを覚え、主イエスの十字架による罪からの救いを信じて受入れるとき、救いと祝福を与えていただけるのです。

 

(11月11日礼拝説教要旨)

「恵みを有効に」コリントの信徒への手紙二6:1-13

 

 「神の恵みを無駄にしてはいけません」(1節後半)他のことではもったいないと思えるかも知れませんが、神の恵みに対して鈍感な傾向があります。自分中心に都合の良いことが起きることだけが恵みではありません。 そういうことだけが恵みだと思うのはもったいないことです。最高の恵みは、全てをご存じの神の目で見て赦されるはずのない自分の罪を覚えた時に知ることができるのです。

 「今や恵みの時、今こそ救いの日」(2節)万事が順調の時だけそういうのではありません。厳しい状況にあっても(4節後半―5節前半参照)パウロはそのように語ることができました。それは苦難の中でも、自分が主イエスの十字架によって罪赦され、共に歩んでくださる方を覚えることができたからです。

神の恵みが分からなくなることがあります。他の人にはたくさん恵みが与えられているのにどうして自分だけがこんなにつらい思いをしなければならないのか、また、聖書で語られている神を信じても信じなくても、たいして変わらないのではないかと思うこともあるかも知れません。あるいは、人に対する言動から自分はキリスト者失格と決めつけてしまうこともあります。どうせこの人にはキリストの救いは分からない、あるいはこんな人が罪赦さるはずがないと考えてしまうこともあります。けれどもそういうのは自分の思いです。それらすべて神の恵みを無駄にすることにつながります。

神が主イエスの十字架の恵みを通して私たちの罪を赦してくださったということは、私たちの側にそれだけの資格や権利があるからではありません。神は主の十字架によって罪を赦して受け入れてくださいます。私たちをしっかりと導いてくださっています。それは私たちが何かが出来たとか、どういう失敗を繰り返しているということを越えているのです。

 「わたしたちはあなた方を広い心で受け入れていますが、あなた方は自分で心を狭くしています」(12節)パウロは広い心で問題のたくさんあるコリントの教会の人たちに福音を伝えました。恵みを無駄にしません。 

 この当時の聖餐式は、ブドウの杯は回し飲みだったことが考えられてます。自分が一緒になりたくないような人たちと同じ杯から飲んだり、大きな問題を抱えているあの人と同じ聖餐の恵みに与ります。狭い心のままでは考えられないことが起きています。 一番一緒にいたくないような人とも同じパンとブドウの杯の恵みに与れます。私たちの個人的な都合を超えている広い心を持った世界がすでに礼拝で実現しています。そういう神の恵みの世界が礼拝で実現しています。そこから日常の生活の場にそれぞれが遣わされていくのです。

 

 (10月14日礼拝説教要)