神のご計画」  エフェソの信徒への手紙3:1-13


 
「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や”霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束に与る者となるということです」(5-6)ユダヤ人、異邦人の壁がなくなリ、同じ主イエスの十字架の恵みによって救われ一つとされます。神の目から見たら、ユダヤ人も異邦人もありません。どちらも大切な存在です。人間の間では、私はこういう理由で救われて当然です、あの人とはいっしょにしないでくださいという思いがあるかも知れませんが、神の側から見たらそういうのは関係ありません。どちらも神の大切な作品です。どんな人も救いたいのです。

 

聖書を読むと神が旧約の民を選ばれたことが出てきます。選んだ理由は、彼らが強かったからではありません。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」(申命記7:7)そういう民を先に選ばれ、そこからすべての民が救われることを神が望んでいます。十戒の第四戒では寄留者、奴隷たちにも安息日が守られるよう言われています。

 

 神のご計画は壮大過ぎて、人間がついていけないのです。旧約の時代から長い時間が経っていますが、最終的には終末に主が再び来てくださり、救いを完成してくださいます。ここに神のご計画があるのです。

 

神は時間をかけて人間を救いへと導いてくださっています。確かに救いの世界は広がっています。旧約の時代よりも、主イエスの時代、さらにパウロが伝道していた時代、さらに現代、広い世界に福音が宣べ伝えられています。時間をかけてこの国にも福音が伝わり、主イエスの十字架の救いを信じる者たちが今も起こされています。

 

「最もつまらない者」(8節)神の御前に本当に立ったらどんな人も、私は最もつまらない者と言いたくなるのです。本当に神の御前に立った時、何よりも自分の罪の問題が大きく見えてきます。その時に横の人たちと比べて私はあの人よりましですとは言えなくなります。そういう意味の「最もつまらない者」なのですが、主イエスと出会い救っていただけました。以前は行いによって救われようとして頑張ってきましたが、どこまでやっても救われた実感がありませんでした。そんな自分があの十字架によって救っていただいています。神の御子が私たちに代わって十字架にかかってくださった恵みによって救えない人はいないのです。主イエスと出会って、本物の救いの恵みに与ることを神が望んでおられるのです。

 

                                               (512日礼拝説教要旨)

 

 「教会はキリストのからだ」エフェソの信徒への手紙1:15-23


 
22節でキリストがすべてを治めておられると語られています。けれども、私たちの目からはそのように見えないこともあります。教会の外ばかりでなく、時には教会の中でもキリスト以外の力が強く見えることも起きてしまいます。パウロは牢の中にいます。そのパウロがあらゆるものが、キリストのご支配のもとにあるというのです。分けの分からない力や、この世の諸々のものを恐れなくて良いのです。キリストだけが救ってくださる力を持っています。

21節にあるように今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上におられるのが、キリストなのです。パウロは、17節以下で「心の目を開いて」「神を深く知る」ように祈っています。私たちの心の目は、なかなか開きません。今まで生きてきた経験や常識と言われるものが心の目を塞ぎます。そういう私たちに聖霊が働いて神を深く「知る」ように導いてくださいます。私たちの知識を積み上げていって知るというのではなく、神の側が聖霊によってご自身を深く知らせてくださるのです。

聖書の言葉を通して、礼拝で語られる説教を通して、知ることができます。はじめは聖書をただの本としか思っていなかった人が、聖霊の働きによって神の言葉として受け止めるようになっていきます。礼拝の説教もただの講演と変らないと思っていた人が、自分に向かって神が語りかける御言葉として聞こえて来ます。洗礼は自分には関係ないことのように思っていた人が、私の救いにとってあの十字架と復活が欠かせないことを知ることができます。そして聖霊で救いの証印をおしていただきたいと考えるようになっていきます。その背後で聖霊が働いています。      

23節に「教会はキリストの体」とあります。そこには血も流れています。ここが大切なのです。ある意味、教会は、ほかのこの世の団体と変わらないように見えます。世の中にも、良い人間関係の団体はあります。けれども永遠ではありません。反対に教会の中にも、もめごともあります。そういうことがあったとしても、表面上傷つくことはありますが、キリストの体は壊せません。教会が教会であるのは、頭であるキリストと身体の部分の関係を持つからです。そこにキリストの十字架の血が流れて、復活の命にあずかって私たちが枝とされています。そのことを聖餐の恵みによって覚えることができます。

 教会の頭であるキリストがすべてを治めておられることが、終末において完全に明らかにされます。そのことを先取りして今、こうして共に礼拝することがゆるされているのです。 47日礼拝説教要旨) 

  

「祝福がありますように」コリントの信徒への手紙二13:11-13


 
「喜びなさい」どちらかというと喜んでいる時間よりも喜んでいない時間の方が多いかもしれません。常にニコニコしていなければ救われないのではありません。苦しい時にもどんなときも主が共にいてくださるので、深いところで喜びを持っていられます。 私たちは一人ではありません。主が共にいてくださるのです。私たち一人ひとりの全てをご存じの主と共に歩むことがゆるされていることを喜ぶことができます。       

 「完全なもの」普通に言う完全な者とは違います。「わたしはすでに完全な者になっているわけでもありません」(フィリピの信徒への手紙312)人間の力で完全な者になれるのではありません。主が再び来られ、救いが完成するときに完全な者としていただけるのです。 

 「互いに励ましあう」これは人間的な励ましではなく、主がこの私に、私たちに救いを与えてくださっているという事実に目を向ける励ましです。 

 「思いを一つに」コリント教会は分派争いがありました。そういう人たちが信仰によって一つとされます。教会をキリストのからだとして建てようと思ったら、信仰の一致が不可欠です。教会に属している一人ひとりはばらばらなようですが、一つ思いとされ、一つのからだとされているのです。

 「平和に過ごす」ただ争いをしないという意味ではありません。一人ひとりが神と平和の関係を保ったときに横の人との間にも平和が与えられるのです。「そうすれば、愛と平和の神があなた方と共にいてくださいます」(11節後半)ただ仲良くしていればそこに平和があるという薄ぺらいものではなく、信仰告白において一つとなって、神との間に平和が与えられる世界があるのです。

 「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」(12節) これはただの口づけではありません。当時の礼拝で行われていたようです。分派争いや立場の違う人たちがお互いに挨拶しあいます。形がどんなであっても、主にある交わりにふさわしい挨拶があります。それは自分にとって都合の良いが人とだけ挨拶をするというものではありません。損得であいさつをしたり、しなかったりするのでなく、主にある交わりのあいさつです。

 パウロは、祝福の言葉をもってこの手紙を終えています。いろいろ問題のあるコリントの教会です。パウロとの関係も良いとはいえないものもありました。けれども、そこにも三位一体の神との交わりがあるように祈ります。神に祝福され、人を祝福するものへと変えられていきます。自分さえ良ければという者から、自分にとって都合の悪いものにも神の祝福を祈るものへと変えられていきます。 324日礼拝説教要旨)