「祝福がありますように」コリントの信徒への手紙二13:11-13


 
「喜びなさい」どちらかというと喜んでいる時間よりも喜んでいない時間の方が多いかもしれません。常にニコニコしていなければ救われないのではありません。苦しい時にもどんなときも主が共にいてくださるので、深いところで喜びを持っていられます。 私たちは一人ではありません。主が共にいてくださるのです。私たち一人ひとりの全てをご存じの主と共に歩むことがゆるされていることを喜ぶことができます。       

 「完全なもの」普通に言う完全な者とは違います。「わたしはすでに完全な者になっているわけでもありません」(フィリピの信徒への手紙312)人間の力で完全な者になれるのではありません。主が再び来られ、救いが完成するときに完全な者としていただけるのです。 

 「互いに励ましあう」これは人間的な励ましではなく、主がこの私に、私たちに救いを与えてくださっているという事実に目を向ける励ましです。 

 「思いを一つに」コリント教会は分派争いがありました。そういう人たちが信仰によって一つとされます。教会をキリストのからだとして建てようと思ったら、信仰の一致が不可欠です。教会に属している一人ひとりはばらばらなようですが、一つ思いとされ、一つのからだとされているのです。

 「平和に過ごす」ただ争いをしないという意味ではありません。一人ひとりが神と平和の関係を保ったときに横の人との間にも平和が与えられるのです。「そうすれば、愛と平和の神があなた方と共にいてくださいます」(11節後半)ただ仲良くしていればそこに平和があるという薄ぺらいものではなく、信仰告白において一つとなって、神との間に平和が与えられる世界があるのです。

 「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」(12節) これはただの口づけではありません。当時の礼拝で行われていたようです。分派争いや立場の違う人たちがお互いに挨拶しあいます。形がどんなであっても、主にある交わりにふさわしい挨拶があります。それは自分にとって都合の良いが人とだけ挨拶をするというものではありません。損得であいさつをしたり、しなかったりするのでなく、主にある交わりのあいさつです。

 パウロは、祝福の言葉をもってこの手紙を終えています。いろいろ問題のあるコリントの教会です。パウロとの関係も良いとはいえないものもありました。けれども、そこにも三位一体の神との交わりがあるように祈ります。神に祝福され、人を祝福するものへと変えられていきます。自分さえ良ければという者から、自分にとって都合の悪いものにも神の祝福を祈るものへと変えられていきます。 324日礼拝説教要旨)

 

「恵みは十分」コリントの信徒への手紙二12:1-10

 

 「わたしの恵みはあなたに十分である」(9)。この言葉は、自分が恵まれていると実感のある人にとっては受け入れやすいかもしれません。けれどもパウロにこの言葉が臨んだのは全く違う状況でした。一生懸命祈ったけれども病気が治りません。そのときの神の応えが、先の言葉です。パウロにとっては伝道者のマイナスになるような病気です。ただ癒して欲しいと願ったことだと思います。苦痛が大きいほどサタンでも何でもいいから、早く病気を治して欲しいと思います。そういう思いのある中で主に祈り続けます。そしてその目的を知るようになっていくのです。

恵みはあなたに十分と言われてもパウロの病気は癒されていません。たぶんパウロは生涯この病気を背負ったまま伝道者として歩み続けたと考えられます。けれども恵みは十分と主イエスは言われるのです。最初は自分の病気のことばかり気になっていたのに、その意味が全く変わっていきます。自分を弱くするようにしか見えなかった病気が、実はそうではなかったことが見えてきました。病気そのものはなくなりませんでしたが、病気の意味が変わります。

 キリストに救われたといっても自分に与えられた弱さ、どうにもならない苦しい状態はなくなりません。けれどもそれも受け入れられるようになります。この病気があるからこそ、自分の信仰の健康が守られている。そういう風にパウロは受け入れられるように変えられていきます。

 パウロは特別な経験をしています。そういう特異な神秘的経験をすると自分は特別だと思い上がってしまうのが人間です。自分の信仰を誇らないようにトゲが与えられたことを覚えさせられます。この病気があるからこそ自分の信仰の健康が保たれていることを覚えます。

病むことは弱さにしか結びつかないようですが、そうではないのです。神によって弱くされなければ、いつでも自分の中に誇りを見出し、神から離れようと思い上がってしまう自分が存在します。苦痛や問題を抱えた時、それが解決されないと救いがないのではなく、そういう自分にも救いの恵みが十分与えられていることを見出すことができるのです。

 この恵みさえあれば、もう自分を誇る必要はないのです。自分を誇ることを人生の目標にする必要もありません。神の恵みは弱さの中にも十分に現われています。自分はダメだと思ってしまうこともあるかも知れません。けれども、もうそのようにして自分を痛めつけなくても良いのです。そういう人にも神の恵みは働いています。神が今の弱い欠けのある自分の存在を肯定してくださり、主の恵みはあなたに十分であると語ってくださるのです。 (2月17日礼拝説教要旨)

「比較しない」コリントの信徒への手紙二10:7-1

 

パウロは、主イエスの12弟子の一人のペトロや雄弁なアポロ比べられました。パウロに敵対する人は、パウロのことを低く見て、自分が有利な立場に立とうとしました。けれども人のことを低く見ても、自分の能力が増えるわけではありません。水平の世界だけを見て生きるとこういう間違いが起きます。けれども垂直の世界を知れば知るほど自分の小ささを思い知らされます。天を仰ぐ座標がないと自分が何ものか、どこにいるのか、何をしているのか良く分からなくなってしまうのです。

 神の御前に立ってみるとただ自分の欠けや弱さが問題になって、主よ憐れんでくださいとしか言い様がなくなります。そして主の十字架によって、赦していただけることを感謝して恵みに応えたくなるのです。

 コリントの教会には大きな問題がありました。私はパウロにつく、私はアポロに、私はペトロに、私はキリストに、そういう分裂の問題がありました。私はキリストにつくというのも間違いとして上げられています。そういう人たちにパウロは言います。あなた方はキリストに属するということを誇っている。それは自分たちも同じだと言います。同じキリストに属している者が見えなくなっているキリストにつくというのは何かが間違っていることを指摘しています。本当にキリストに属しているのかということを問わなければならない団体もあります。

「キリストのもの」という言葉が二度出てきます。キリスト者にとって大切なことは、自分がキリストのものになっているということです。自分はもはや自分のものでも、会社のものでも家族のものでもない。キリストのものとしていただいているのです。形の上ではほかのものとして生きているように見えることもあるかも知れませんが、意味がまったく違います。この世のものを越えてキリストのものとして、喜んでキリストにお仕えすることができるのです。    

キリストをしっかりと見つめ、私たちを十字架で贖い取ってくださる方として見つめるならば、分派争いをしてしまう自分のようなものも、十字架の赦しの中におかれていることを見出すことができます。お互いにキリストの十字架の赦しの中に生かされている者として、そこからお互いの関係を造り上げることを目指します。

うわべだけみたら、いらないように見える人もいるかも知れません。けれどもその人も必要なのです。その人もいてくれないとキリストのからだは完成しません。信仰の目をもってしっかりと天を仰いで、水平の世界を見直して、比べる必要なくあらゆる人と共に神の御前に生きる世界があるのです。 (1月20日礼拝説教要旨)