「失敗する者のために」 マルコによる福音書14:43-52

 

  12弟子のだれ一人として主イエスのご受難の道を共に歩むことが出来ませんでした。 けれども、そういう弟子たちをマルコによる福音書は非難していません。神の目から見て合格点の信仰を持った人はいません。そういう私たちを十字架で赦してくださる主イエスを聖書全体が伝えようとしているのです。  

  主イエスはゲッセマネの園で御心を受け入れるため祈って戦われました。それは49「聖書の言葉が実現する」という御心を受け入れるための戦いでした。 弟子たちは御心を受け入れる準備が整っていませんでした。ペトロも他の弟子たちも、一緒で主イエスを見捨てて逃げ出してしまいました。御言葉に背を向けて逃げ出してしまいました。 ユダにしてもペトロにしても目に見える神の国を考えていました。人間が考える神の国。それは分かりやすいかも知れませんが、聖書の語る神の国ではありません。力で支配して、無理やりキリスト者を増やしたとしても神の国はできません。 私たちは弟子の中でユダを特別悪者扱いしたくなる傾向があります。けれども、ユダも12弟子の一人と強調されています(43節)。ユダとペトロ、どちらも主イエスを裏切ってしまいました。他の弟子たちも皆、逃げ出してしまったのです。自分の都合で、ついて行く時は行きますが、逃げる時は逃げてしまいます。御心ではなく、自分の思いが優先されます。ユダと他の弟子たちの大きな違いがあります。ユダは裏切って後悔してそれで終わりでした。他の弟子たちは悔い改めてそこから先がありました。この違いが大きいのです。 主イエスはユダに対しても御手を差し伸べていてくださいました。裏切ることを十分にご存じなのに「友よ」とマタイによる福音書では呼んでくださっています。

  主イエスが打ち立てようとされている神の国は剣によるのでなく、力による支配でもありません。主イエスご自身が十字架にかかって赦してくださり包み込んで守って、仕えてくださる神の国です。 やがて弟子たちは、変えられていきました。主イエスを見捨てて逃げてしまうような失敗をしてしまう自分たちを赦すため十字架にかかってくださった主イエスを知って変えられていきました。失敗してしまうキリスト者失格の私たちのために、主イエスが十字架にかかってくださったのです。主イエスが救ってくださり、神の国の民としてくださっているのです。自分の計画にイエスを当てはめようとしてしまうような私たちが主イエスキリストの思いをなしていくように変えられます。私たちのために十字架にかかってくださった主イエス・キリストが私たちを変えてくださるのです。

 

(5月27日礼拝説教要旨)

 

「無駄ではない」   マルコによる福音書14:1-11

 

マルコによる福音書では「ナルドの香油」の出来事が、祭司長たちやユダの思いと対照的な一人の人の行為が描かれています。

香油を注いだ人は、当時の約一年分の賃金に値するほどのものをいっぺんに使いました。そこにいた何人かの人々は「無駄使い」(4節)と言います。確かに目に見える損得勘定の世界ではそうかもしれません。多くの人のために使った方が有効のようにも見えます。教会のしていることも、信仰生活もこの世の価値観で無駄にしかみえません。礼拝も祈りも、そういう時間とエネルギーがあったら他のことに使った方が良いように見えるかも知れません。けれども教会にとっても信仰生活にとっても礼拝も祈りも欠かすことが出来ない大切なものなのです。

 この場面は、もうすぐ主イエスが十字架につけられるために捕まろうとしているところです。そういうところまで来ているにもかかわらず、香油を注ぎかけた行いについて人々と主イエスの理解が全く違っていました。私たちはこの世の計算にとらわれてしまいます。自分は何もしないで人のことを非難してしまいます。そういう私たちのために十字架に向かわれる主イエスがここにいるのです。

 「わたしはいつも一緒にいるわけではない」(7節)と主イエスは言われた。貧しい人への施しはその気になればいつでもできます。貧しい人、助けを求める人がいなくなることはありませんが、主イエスはいつも一緒にいるわけではありません。けれども貧しい人のために愛の業をすることよりも、主イエスの方が大切だと言いたいのではありません。主イエスが人々の前から去って行く時が来る、ということを言いたいのです。

 まもなく主イエスが捕らえられ、十字架につけられて殺され、葬られることが意識されています。香油を注いだ人にそのような意図はありませんでした。なりふりかまわず主イエスに自分の大切な宝物をささげ尽くしただけです。「わたしに良いことをしてくれた」(6節)と主イエスは言われます。この人の献身的な行為を主イエスはご自分の十字架と関係づけて受け止めてくださっているのです。それは「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられる」(9節)ためです。福音が宣べ伝えられるところでは、世界中のどこでもこの人のしたことも記念として語り伝えられます。私たちのすることも主イエスは受け止めてくださいます。たとえ人の目にはそれが無駄なことのように、意味のないことのように見えたとしても、主イエスは私たちの思いを分かってくださり、意味あるものと位置づけてくださるのです。

 

(4月22日礼拝説教要旨)

 

 「見捨てられていない」マルコによる福音書15:33-41

 

 主イエスは過ぎ越しの祭りの金曜日朝に十字架につけられ、午後に息を引き取られました。その少し前に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(34節)と叫ばれました。とても救い主の言葉とは思えない、という人が多いのです。

 十字架というのは、この当時最も厳しい死刑です。主イエスは大声で叫ばれました。その叫びは、ただの絶望の叫びや肉体的な苦痛による断末魔の叫びとは意味が違っています。見捨てられる必要がない神の御子が私たちに代わって神から見捨てられた、その叫びです。罪の全く無い神の御子だけが神から見捨てられるという本当の意味を知っておられ、神の御前に恐れます。

 主イエスの十字架は昔の悪い人たちの問題だと言えないのです。主イエスは十字架で黙って苦しみを引き受けてくださいました。そこに大きな転換が起きています。本当は、主イエスを拒んで、ののしっている者こそが呪われて十字架につけられなければならない罪人です。その私たちに代わって主イエスが十字架について呪われてくださいました。(ガラテヤの信徒への手紙3章13節)私たちは呪われなくても良いのです。

 主イエスが十字架で息を引き取られた時「すると神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(38節)とあります。「神殿の垂れ幕」は至聖所に至る垂れ幕のことだと言われています。大祭司だけがこの幕をくぐって、神との交わりがゆるされていました。普通の人間は大きな罪をもつゆえに至聖所には入れないと理解されていました。けれども、主イエスが十字架についてくださった時、その隔ての幕が切り裂かれたのです。これは神への道があらゆる人に開かれたしるしです。祭司以外の人、ユダヤ人以外の人を神のおられる場所から締め出す掟は、もはやなくなったのです。神のおられる至聖所から排除されていた私たちを至聖所ヘと招くために主イエスは十字架にかかってくださいました。この処刑を見張っていたローマの百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」(39節)と言いました。異邦人の百人隊長の口から信仰告白がなされています。神殿の垂れ幕が裂かれ、異邦人も神との交わりがゆるされています。

私たちも最初は主イエスの十字架を傍観者として見ていられました。けれども、礼拝の場に何度も招かれて、主イエスを十字架につけ、苦しめているのは自分自身であることに気がつかされていきます。そしてさらにその自分に代わって神から呪われてくださった主の十字架の意味を覚えます。 主の十字架を信じて神から祝福を受け新しくされ変えられ「本当にこの人は神の子だった」という信仰の告白を教会の人々と共にするように変えられているのです。 

(3月25日礼拝説教要旨)

 

「人の思いをはるかに越えて」マルコによる福音書12:1-12

 

  このたとえが示しているのは、神が神から離れ逆らい続ける民にしつこく預言者を遣わされましたが、民はその預言者たちを殴り、侮辱し、殺してしまいまった歴史的な事実です。神は、神ご自身に背くようなイスラエルを決して見捨てません。

 何人もの僕が痛めつけられたり、殺されたりした後、ブドウ園の持ち主は最後に自分の子を送ります。自分の子なら敬われると思ったからです。けれども、息子も殺されてしまいます。ここに私たち人間の罪が表わされています。なぜブドウ園の持ち主は乱暴な農夫のいるところにどうして息子を武装した軍隊と一緒にというのではなく、一人で行かせたのでしょうか。私たちの思いをはるかに越えています。神が独り子であるイエス・キリストを遣わしてくださったということは、普通では考えられないことが起きているのです。このたとえを通して父なる神の愛、そして主ご自身の愛を示してくださっているのです。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(10節)「隅の親石」という石について二つの説があります。一つは、家の角に置かれた重要な土台の石です。もう一つの説は、アーチの一番大切な石です。アーチの真ん中にその石がはめ込まれることによって、石が互いの重さでしっかりと動かなくなります。二つの説いずれにしても一番大切な石です。その石のおかげで、他の石が生きるのです。この隅の親石があることによって、それまで死んでいた石が生かされるのです。救いの専門家の祭司長や律法学者たちや長老たちが捨てたイエス・キリストこそが、救いの基となったのです。

 イエス・キリストは十字架で葬りさられたのではなく、復活の主として全ての人間の救いのために神の主権をうちたてられました。私たちにはこのお方が隅の親石としていてくださるのです。この親石さえあるなら、私たちは弱くても欠けていても、生かされるのです。アーチの真ん中に親石がはめ込まれることによって、ほかの石が互いの重さでしっかりと動かなくなるように救いから離れないのです。それぞれの石は、大きな石もあれば、小さな石、変な形をしている石もあります。一つ一つはばらばらな石ですが組み合わされるときにどれも必要な石なのです。

 弱くて至らない欠けの多い罪人の私たち一人ひとりが教会の欠かせない石として積み上げられているのです。一人ひとりは欠けのある罪人に過ぎませんが、そのような私たち一人ひとりをキリストが十字架で清めてくださり、キリストのからだの一部として組み合わされてています。神から預かった場において収穫を待つことが出来るのす。

(2月25日礼拝説教要旨) 

 

「恵みを思い起こして」テモテへの手紙二2:8-13

 

 パウロは牢の中にいます。パウロは一方で元気をなくします。けれどももう一方でそこに神の御業をみることを忘れていません。私たちにも似たようなことがあると思います。キリストが本当の救い主だと信じています。けれども主イエスの弟子たちと同じで、何かあったら信仰を投げ出してしまうかも知れない自分もいます。

  パウロも泣いたり、悲しんだ時もありました。 パウロは一方で弱さを持った人間です。若い弟子の助けをも必要としています。けれどももう一方で教会を信じています。揺れ動いて良いのです。大切なのは弱さと確信の間を揺れ動いていたとしても、教会の信仰が救ってくれるということです。私たち一人ひとりの歩みで、泣く時もあります。苦しむ時もあります。わたしたちの信仰には教会という礼拝共同体が必要です。教会の信仰によって救っていただくのです。確かに一人ひとりの人間には欠けも弱さもありますが、教会の信仰によって救っていただけるのです。

  ですから教会の頭である「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」(8節)と言うのです。パウロがキリスト者として、伝道者として立っていられるのはパウロの信仰が強かったからではありません。イエス・キリストが生きておられたからです。キリストを信じる教会の信仰によって私たちは救われました。私たちを救うのは人間の力でなく、神の御業なのです。キリストは私たちの救いに必要なすべてのものを与えてくださっています。どんな人にでも救いを与えていただけます。たとえ私たちが立派に歩めないことがあったとしても、世間の目から評判良く映らなかったとしても、キリストが私たちを裏切られることは決してありません。キリストは救いを求める者にあなたはダメとは言われません。私たちの目から見てどんな人であっても例外なく救ってくださいます。

  私たちの弱い信仰が救いをなくしてしまうのではありません。教会の信仰が私たちを救ってくださるのです。キリストの方が私たちを捕らえてくださるのです。キリストは常に真実です。「キリストは御自身を否むことができない」(13節)キリストは私たちを購うために十字架にかかってくださいました。これがキリストの真実です。その救い主であるキリストを思い起こすのです。これは特別なことをするのではありません。礼拝の中でイエス・キリストを思い起こします。また日々の生活においても私たちは十字架と復活のイエス・キリストを思い起こすことができるのです。

(元旦礼拝説教要旨)

 

「クリスマス」  ルカによる福音書2:1-7

 

 世界中の教会でクリスマスをお祝いします。クリスマスは、主イエスが生まれてくださったことをお祝いする時です。どうして主イエスが生まれてくださったことが、私たちにとってのお祝いなのでしょう。私たち自身の誕生日以上の意味があるのです。世界の歴史の中でこれ以上に喜ばしいことはないのです。

 主イエスは確かに生まれてくださいました。ただの昔話ではなく、神の御子が人となって、救い主としてこの世に来てくださったのです。この時、自分の種族の出た町で登録しなければならないというルールがありました 二人にとっては楽な旅ではありません。それも自分たちの町を支配しているローマに税金を払うための登録をする旅です。正直言って出来れば避けたい旅です。

 ヨセフもマリアもいきなり天使にマリアが聖霊によって身ごもったと言われました。マリアにしてもヨセフにしても最初は何が起こっているのか分かりませんでした。いろいろな葛藤があったと思います。マリアもヨセフも自分たちの身に起こる神の御業を、生まれて来る子を受け容れる思いをもって、二人で登録に行くのです。そして、マリアは子を産みます。馬小屋で主イエスはお生まれになりました。

 救い主は普通の赤ちゃんとして生まれました。罪という点を除いて他の人間と全く変わらない一人の人間としてこの世に入って来てくださいました。赤ちゃんですから、周りの人の助けと支えがないと生きていけません。普通に考えたら、逆です。救い主が人間を助けてくれるはずです。赤ちゃんですから、救い主には見えません。けれども飼い葉桶に寝かされている方が本物の救い主なのです。

 主イエスは馬小屋で生まれてくださいました。それは汚い所まで来てくださる救い主を意味しています。私たちには自分自身でも見たくない醜いところがあります。ふだんはそういう所を見ないふりをしたり、蓋をしてごまかすこともできるかも知れませんが、どんな人でも心の中、お腹の中に罪の問題を抱えています。

  聖書の語る救い主は、信仰の優等生のきれいな部分だけ救うような救い主ではありません。神の目から見て汚いものを持っている人の醜い所まで来てくださり、そういう所のある私たちをまるまる救ってくださる方なのです。神はどろどろした汚いところを持っている罪人である私たちを救ってくださるために独り子を遣わしてくださいました。この様な出来事は、歴史上、他にないのです。どんなに大きなニュースがあったとしてもクリスマスに勝る喜びの出来事はないのです。

(クリスマス礼拝説教要旨)

 

  「味方」マルコによる福音書9:38-41

 

  私たちは敵をつくりたがる傾向があります。敵、味方に分ける世界は、自分の居場所をつくりやすいかも知れません。けれども、それが普遍的な本当の居場所かは疑問です。敵を間違ってはいけないのです。私たちにとって本当に恐ろしい敵は、キリストの十字架の贖いの恵みから引き離そうとするものです。

 主イエスの名を使って悪霊を追いだしている人がいたと手柄を立てようとしてヨハネが主イエスに報告していることが38節にあります。ヨハネの言葉をよく見てみると主イエスに従わないというのではなく「わたしたちに従わない」(38節)ことが問題にされています。

 主イエスは、そんなヨハネの思いを打ち砕かれます。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方である」(40節)と言われます。主イエスにお仕えしながら、人と比較します。弟子たちの間で比べ、その他の人とも比べます。あの人と自分は違います。そうやって敵をつくり出して行きます。そういう思いが問題なのです。人と比べなくて良いのです。敵も味方もありません。 

 明らかに神に逆らわない限り、味方として理解して良いと主イエスは言われます。「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(41節)私たちがキリスト者であることを知って水を飲ませてくれるなら,その人も味方だと言われます。私たちが信仰を持つこと、私たちが教会に行くことを悪く言わない人、少なくとも反対しない人、受入れてくれる人は味方だと主イエスは言われます。

  主の十字架を仰いで自分と言う罪人も赦されている恵みの世界から隣人を見て行く世界があるのです。神と向き合って、自分の罪の問題を見つめます。自分自身が神の敵であったことを覚えます。その敵であった私たちの味方となってくださる方がいるのです。

  主イエスが十字架にかかってくださり、私たちの罪を赦してくださるのです。主イエスの十字架の前で人のことを裁けなくなります。そして、あの人もこの人も敵ではない世界が見えてきます。そこに見えてくるのは敵ではなく、味方です。違いを裁きあって敵をつくるのではない世界が示されています。裁きあって敵をつくって、自分の居場所を確保するのではない世界が待っています。過ちを許し合い、共に十字架の主イエスをあがめていく世界が広がっているのです。

(11月19日礼拝説教要旨)

 

「信仰を言い表そう」マルコによる福音書8:27-30

 

  主イエスはエルサレムに向かう遠回りの道の途中で「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問われます。 当時の人は、28節にあるように「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の一人」と答えがあります。主イエスを優れた人間の一人として考えていました。

 主イエスは世間の人々の思いを聞かれた後で、弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(29節)と問われます。 

  この問いは「あなたがた」に向けられたものです。そしてそれは今の私たち一人一人にも向けられているのです。その問いにペトロが代表して答えてくれます。「あなたは、メシアです」(29b)メシア=救い主です。ただの先生とも預言者とも違います。罪によって失われてしまった神の祝福を回復し、神の民をあらたに集め、歩み出させて下さる方と言う信仰を言い表しています。その告白は、世の人が主イエスのことを預言者や教師として敬う思いを持つのとは違っています。世の人たちにとって、主イエスは、あくまでもナザレの一人の人間に過ぎません。自分たちが教えを聞いて、それを実行していくことによって、救いを得ようとします。自分たちが暮らしやすい国を求めます。そこには人間の罪の問題は入っていません。

 それに対し、ペトロは主イエスこそ、救いを実現し、与えてくださる方とその信仰を言い表しています。人間は自分たちの力で罪からの救いを得ることは出来ません。主イエスの力によってのみ救いを与えていただけるという信仰を言い表しているのです。この信仰告白こそ、教会の信仰の土台です。いつの時代も教会は、この土台の上にたっています。キリスト教はイエス様こそが、罪からの救い主であると信じているのです。

  ナザレの一人の人間の教えを人生教訓として聞いて、それにならって生きようとするのとは違います。人格者になることが救いではありません。罪人である私たちですが、救いを一方的に与えていただけるのです。私たちが良い人になったから、救いが与えられるのではありません。神の目から見て罪の問題を抱えている私たち一人ひとりですが、そういう私たちの代わりに主イエスが十字架にかかってくださったことによって、救いを与えていただけるのです。

  ペトロは不完全な信仰しかもっていません。主イエスが十字架にかかられることになる前に捕えられたとき、主イエスとの関係を否定し、「知らない」と3度も言ってしまいます。そういうペトロですが、「あなたはメシアです」と信仰を言い表し、信仰を全うし、ローマの皇帝ではなく、主イエスを拝みました。

  主イエスは私たちにも問われます。「わたしを何者だと言うのか」

(10月1日礼拝説教要旨)

 

 

 「恵みを求めて」マルコによる福音書7:24-30

 

  ティルスにおられる主イエスのもとに一人の異邦人が訪ねてきます。異邦人の町にも主イエスを求めている人はいます。けれども、この当時、異邦人がユダヤの人に願い事をすることは、あり得ないことでした。そういう状況の中で、この人は大胆に主イエスのもとに来、救いを願います。主イエスの足元にひれ伏し、娘から悪霊を負い出して欲しいと頼みます。

  それに対して主イエスの態度は冷たいものがあります。けれども、異邦人はあきらめません。ひどい断られ方をしても、主イエスのもとを離れようとしません。この人と旧約聖書に出てくるヤコブの姿が重なってきます。ヤコブは父親をだまして祝福を奪い取って逃げて、様々なことがあって故郷に向かいます。そこで神の御使いと出会い、あきらめないで「祝福してくださるまでは離しません」と言いイスラエルと言う名前を与えられます。(創世記32章25節以下)

 今日の聖書に出てきた人も「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、こどものパン屑はいただきます」(28節)と答えています。この人は自分が主の食卓につくことができるような者ではなく、食卓の下にいる小犬のような存在であると言います。けれども小犬は食卓から落ちたパンくずを食べると言います。こぼれ落ちる恵みをください、と言います。自分が救いに値しない者であることを受入れ、恵みを求めているのです。

 私たちも主の食卓についてあたりまえの者ではありません。どんなに誇ることを持っているつもりの人でも神の目から見たら罪人の一人に過ぎません。そういう者は主の食卓に相応しくありません。主の食卓につくことが相応しくない者ゆえ、主の十字架の血によって、罪を赦していただく必要があるのです。主の十字架の血によって、清めていただいて、はじめて主の食卓につくことがゆるされるのです。

 この人は主イエスに対して主と呼びかけています。マルコにおいて主イエスに対し「主よ」と呼びかけているのはここだけです。他の人たちは「先生」と呼びかけています。自分が救いに値しない者であることを良く知っているこの人が主イエスに対して「主」と呼んでいます。

 私たちも今日の聖書に出てきた人のように主イエスの足元にひれ伏すことができるのです。礼拝の場において主イエスにひれ伏します。礼拝において、このお方を主と告白して、その救いに全てを委ねます。主イエスが十字架にかかってくださったことによって、主イエスの前にひれ伏し「主よ」と呼びかけ、大胆にパンくずを求めることができるのです。

(9月3日礼拝説教要旨)

 

「安心しなさい」マルコによる福音書6:45-56

 

主イエスは、 弟子たちを強いて舟に乗せられます。恵みの世界には、強いられた恩寵という世界があります。自分が望んでいない所へと強い力で導かれ、恵みに満たされます。主イエスと別行動が強いられ乗った舟が湖の真ん中まで来て逆風にあって漕ぎ悩んでしまいます。弟子たちは主イエスが強いて舟にのせなければ、こんな目にあわなかった。一番いてほしい時、なぜ主イエスは一緒にいてくださらないのか、そういう不満をもったと思います。主イエスは弟子たちと別行動ですが、弟子たちのことを見捨てたのではありませんでした。

 別行動された主イエスは何をされたのでしょうか。並行記事のあるヨハネによる福音書には群衆が主イエスを自分たちの王にしようとしたことがあります(6章14-15節)。弟子たちも似たような思いでした。そのような中で主イエスは、群衆を解散させて祈られます。(46節) 聖書では所々で主イエスが祈られたことが描かれています。祈る大切さが示されています。私たちにも祈りが必要なのです。何かをはじめる時、一言でも祈れます。またそれが終わった時も一言祈れます。そうやって、短い祈りを重ねつつ日々を祈りの中で過ごすことができます。また、ある程度時間をとって祈ることもできます。どうしても祈ることができない時も、主の教えてくださった「主の祈り」を祈ることができます。

 主イエスは、逆風で進めない弟子たちのところに来てくださいます。弟子たちは、舟に近づいてくださる主イエスを幽霊だと思って、おびえます。そのような弟子たちに主イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(50節後半)と言われます。主イエスは、主イエスのことを理解できない弟子たちのそばに行かれ、逆風に向かって進まれます。そしてそのご生涯の最後に十字架につかれます。私たちの人生でどんな逆風が吹いても、神はお見捨てにならないのです。あの十字架によって神から祝福をいただけるのです。

  どんなに主イエスに対する理解が不足していても、何が起きようと私たちは神から見捨てられないのです。それは救っていただける根拠は神の側で用意してくださるからです。主イエスが私たちの代わりに十字架にかかってくださいました。そのことを信じるなら、どのような人でも救いをいただけるのです。

  何が起きようと世の中がどんなに変化しようと自分の周りで何が起きようと「安心しなさい」という声を主の日の礼拝の度、また日々の祈りの中で聞くことが出きるのです。そして見える聖餐の恵みにおいてこの声が確かであること覚えることができるのです。

(8月6日礼拝説教要旨)

 

 「救いを願おう」マルコによる福音書5:21-43

 

 二人の人が癒された記事があります。この二人は全く立場の違う人たちでした。一人は社会的に認められている人の子。もう一人は社会的に認められていない人です。そういう二人の癒しを通して主イエスの救いの力があらゆる人に及ぶことが示されています。

  主イエスがゲラサ地方から帰って来られた時のことです。群衆が主イエスを喜んで迎え入れているとそこに会堂長のヤイロという人がきました。ヤイロの娘が死にかかっていました。主イエスの足元にひれ伏して、その子の命を助けて欲しいと願います。

 主イエスは、願いを聞き入れてヤイロの家に向かいます。一刻を争う緊急事態です。けれども主イエスの前に群衆が押し寄せています。ヤイロは焦ります。けれども群衆がいるのを好都合に思った人もいました。それは12年間も出血の止まらない人です。 この当時、出血の止まらないことは、神の御前に清くない存在と見なされていました。 この人は会堂長のように堂々と面と向かって主イエスに願い出ることはできなかったので、群衆の中にまぎれ込み、後ろからイエスの服の房に触れます。するとこの人の病気がなおりました。12年間も苦しんで来た苦しみから解放されます。この人は癒された後、そのまま去ることもできたはずですが、そうしませんでした。自分の願い事がかなったら、どうでも良いというのではありませんでした。病気が治ったことによって、目の前にいるお方がどういう方なのか見出すことができました。 主イエスは「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(34節)と励まし、送りだします。主イエスは救いや助けを求めて来る人のあるかないか、わからないような信仰を受けとめてくださるのです。

  会堂長の家につくと娘は死んでいました。そこにいた人たちは死の世界を見ています。 けれども主イエスはそこを越えた世界を見ておられます。娘を助けにむかっている最中に娘が死んだという知らせを聞いて、絶望的な人たちと共に主イエスは行動され、「恐れることはない。信じなさい」(36節)と言われます。死をも打ち破られる力をもっておられる方が共にいてくださることを信じなさいと言われます。そしてただ信じなさいと言われるだけではありませんでした。死んでしまったものを生き返らせてくださいます。

  弱さも欠けもある私たちが神に救いを願い、神から祝福をいただいて、礼拝の場からそれぞれの日常の場へ遣わされていきます。主イエスが私たちに代わって十字架で死んでくださいました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(34節)そのように言ってくださるのです。

(7月2日礼拝説教要旨)

 

「初代教会誕生」使徒言行録2:1-13

 

 世界中の教会でペンテコステをお祝いしています。この日に聖霊が降ったことによって、最初の教会が誕生しました。私たちが信じているのは使徒信条にもあるように「聖なる公同の教会」です。世界中のどこの教会も溯っていくなら、今日の聖書の記事までたどりつくのです。さらに溯ることがゆるされるなら旧約の時代にもさかのぼることができます。

 「五旬祭」(1節)とあります。 元々は、過ぎ越しの祭から数えて50日目にする、刈り入れの祭りの日でした。過ぎ越しというのは、災いが過ぎ越したことによって、エジプトから解放された出来事を記念して行われるようになったお祭りです。イスラエルの民がエジプトから脱出する前に10の災いがありました。その最後の災いの時に、柱と鴨居に羊の血を塗ってあった家だけ、災いが過ぎ越したことによって、エジプトから脱出することが出来たのです。災いが過ぎ越したことによってエジプトの奴隷生活からの解放され、初めての収穫物を神にささげたお祭りが五旬祭、ペンテコステです。

 この過ぎ越しに新しい意味が与えられました。主イエスが全人類のための新しい過ぎ越しの羊となって十字架で血を流してくださいました。私たちの罪に関する神の裁きが過ぎ越す。そういう過ぎ越しの羊と主イエスがなってくださいました。

 その過ぎ越しから初めてのペンテコステの日の出来事が使徒言行録の2章にあります。2章の終わりの方に、ペトロの説教を聞いて3000人が信じるようになったとあります。それは教会にとっての最初の実りといえます。刈り入れの祭りにふさわしい出来事が起きています。

 主イエスが、十字架にかかって、三日目に復活して、その後で天に昇られてしまいしたが、それで終わりではありませんでした。そうではなかったから、教会が今、存在しています。そして、教会の礼拝で主イエスと出会うことが出来るのです。

 主が約束してくださった聖霊が降ったのが、ペンテコステの出来事です。主イエスは天に昇られ、父なる神の右におられますが、聖霊が与えられているのです。聖霊において天におられる主イエスと共にいることが出来るのです。聖霊が確かに働いているから、あの2000年前のキリストの十字架が私たちの代わりの裁きの十字架であり、その恵みによって罪赦されていると信じて歩むことが出来るのです。

  確かに今も教会を通して聖霊が働いてくださいます。2000年前と同様この礼拝の場にも聖霊において主イエス・キリストがいてくださいます。この礼拝の中で聖餐の恵みにあずかりますが、パンとぶどうの杯の恵みを通して、初代の教会に働かれた聖霊が今も働いてくださっていることを見ることができるのです。

(ペンテコステ礼拝説教要旨)